2009/11/18

ユリ3歳

娘のユリですが、今日3歳になりました。誕生から今日までの、受けるに値しない主の憐れみに感謝せずにはいられません。ちなみに「ユリ」という名前は、第二次大戦中のクリスチャンに対する迫害を通らされたユリの今は亡き曾祖母、「ユリ子」から、迫害の中にあっても大胆にキリストを語る者になるように、と祈りつつとった名前ですが、それと同時にマタイ6:28-33(ルカ12:27-31)のキリストのことばにも由来しています。

「…野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。きょうはあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草をさえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。
 そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。これらのものはみな、異邦人たちが切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」

主が若いうちに娘を救って下さり、主を畏れる者にして下さり、御霊を通して主のみ父であられる神を何よりもまず第一に求める人生を歩むようにして下さるように、私たちの切なる祈りです。

2009/11/16

タイ―カンボジア間の情勢

コッコン州のタイ国境に翻る、タイ、カンボジア両国の国旗です。週末にかけて用事があってコッコンに出かけて来たのですが、 丁度タイのタクシン氏がカンボジア政府に招かれ、逃亡先のイギリスからはるばるプノンペンを訪問している最中で、万が一に備えてでしょうか、コッコンの国境にはカンボジア軍の兵士があふれていました。タイ政府はカンボジア政府にタクシン氏の引き渡しを要求、カンボジア政府が要求を拒否したと言うことで、タイ政府がカンボジアとの経済協力関係の見直しをし始めていると、報道されていますが、どうなることやら…ほとんどタイのバーツで取引がなされ、タイの商品で溢れているコッコンの地元の人たちと少し話したのですが、人々も不安を隠しきれないようでした。大事に至らないよう祈っています。

2009/11/08

タイ―カンボジア間の緊張高まる

カンボジア政府が賄賂で国外逃亡しているタクシン氏を経済顧問に任命しようとしたことをめぐって、カンボジア―タイ間の緊張が高まっています。昨日在カンボジアタイ大使がタイ政府の召喚を受けて、カンボジアを出国しました(Phnom Penh Post11月7日の記事)。カンボジア政府はプレヴィヒア遺跡を巡っての問題等で現タイ政府といい関係になく、タクシン氏を経済顧問に任命しようとした裏には、現タイ政府に対するいやがらせがあったとも憶測されていますが、タイとカンボジアの国家間の問題は今に始まったことではありません。2003年には負傷者も出たほどの反タイデモが起きました。

カンボジア在住のタイ人らと、タイ在住のカンボジア人らの安否が気遣われます。戦争に至らないようお祈りください。

2009/11/03

イラン―アッセブリー教会閉鎖を命じられる

テヘランの中央アッセンブリー教会が10月30日(金※イスラム教国の多くの福音派の教会はイスラム教徒たちの礼拝の日、金曜日に合わせて礼拝を持っています)に、今後教会で礼拝を持つことを禁じられ、教会の閉鎖を命じられたということです(persecution.orgの11月3日の記事より)。イランではアッセンブリー教団は登録教会として、他の地下教会に比べてこれまでややゆるやかな規制がおかれていたそうですが、昨今クリスチャンに対する厳しい取り締まりに合わせて、アッセンブリー教団教会も閉鎖に追いやられることになりました。

私たちクリスチャンは礼拝所に捉われず、どこででも私たちの主キリストに礼拝をささげることができます。イランのクリスチャンたちがこれに挫けず、更に御霊によって強められ、迫害の中でキリストの光として輝くことができるよう、覚えてお祈り下さい。

2009/11/02

英会話レッスン(2)

写真は近所のチャム族村の女の子たちです。

つわりが思ったより長引き、ブログの更新を大分怠ってしまいました。つわりの私をよそに、マシューはタマイ村(チャム族村)での英会話レッスンで忙しくしています。学校の先生と小中学校の生徒たちを対象に、現在合計約50人の参加があっています。

つい先週、英会話教室をしている家の人たちが2年前にキリストの映画を見たことがある、ということが判明しました。どうやらCCC(キャンパス・クルセード・フォー・クライスト)の制作したキリストの映画を、誰かがタマイ村で上映したようです。私たちの他にこの村に福音を伝えたい、と思ったことのある人がいる!と、胸が躍りました。

2009/10/04

台風カツィアナ

フィリピン、ベトナムで大きな被害を及ぼした台風カツィアナですが、実はこのカンボジアでも特にプノンペンの北西、コンポントム州でその爪痕を残して行きました。フィリピン、ベトナムほど死者の数は多くありませんが、18名、土砂で道路が遮断され、救援活動が遅れていると報道されています。コンポントム州にもアッセンブリー教団教会がありますが、被害の連絡は来ていません。災害の中で、フィリピン、ベトナムのクリスチャンらを含めた兄弟姉妹たちが強められ励まされるよう祈っています。

2009/09/20

ユリもうすぐ3歳

盆休暇でカンポットまで遊びに来てくれた友達と一緒に、海で泳ぐ人々を眺める娘(左)です。もうすぐ3歳、来年4月にはお姉ちゃんになります。主の憐れみで今日まで成長していることを、心から感謝する毎日です。

2009/09/07

豪雨

3,4年に一度しか大きな洪水が起こらないと聞いていたカンポットですが、今年に入って2度目の洪水が起こりました。日本に向かっていた台風の影響で、昨日から豪雨が続き、タックチュー川が氾濫、市内一帯が床上浸水の被害に遭いました。カンポットではこの豪雨で2人死亡。知り合い数家族の家が床上浸水、家具の大部分を失い、未だに災害の始末に追われています。

2009/09/04

体験旅行ツアー

8月26日から9月4日まで、カンボジア宣教始まって以来初の体験旅行ツアーが開催されました。初めてのツアーで色々不都合があったと思うのですが、皆さん最後まで辛抱してくださいました。戦後30年経ったカンボジアで主が成されているその偉大なみ業を、日本のクリスチャンたちに見てもらいたい、ツアー前から祈っていたのですが、見ていただけたかどうか…主が旅行最後まで、一行をお守りくださったことに心から感謝。

2009/08/22

みことばを心にたくわえる

中国大陸から宣教訓練のためにカンボジアへやってきた、約20人の兄弟姉妹が、私たちを訪ねてカンポットへ見学に来てくれました。現在建築中の水力発電所の開発のため約5,000人の中国人が大陸からやってきていると言うこのカンポットで、宣教できる可能性があるかどうかを視察に来たこの兄弟姉妹、交わっているだけで、キリストの光が朝明けのまぶしい太陽のように輝きます。聖書を所持することが困難なため、日常生活の中で必死で新約聖書のほとんどを暗記している彼ら、聖書のみことばが自由自在に口からこぼれてくるのに、驚かされました。
あなたに罪をおかさないため、私は、あなたのことばを心にたくわえました。」―詩篇119:11
もっとみことばを覚えなければいけない!そんな風に励まされた一日でした。

2009/08/21

無駄でない人生

マシューの両親です。昨年12月に45年間連れ添った夫を天に見送った義母ですが、一人きりになった寂しさと闘う傍ら、70歳になるこの未亡人が何か主のためにできることはないかと祈り続けていました。エルサレムのパレスチナ自治区で、イスラム教徒の子供たちのために設立されたキリスト教の小学校で教鞭を執らないか、という話が先々週舞い込んで来、周囲の子供たちの心配をよそに、2週間と経たないうちに荷物をまとめてイスラエルに飛び立ちました。

爆弾が日常のように飛び交うエルサレム近郊です。ましてやパレスチナ自治区、何が起こるか分かりません。でも、子供たち一家に囲まれた居心地のいい生活よりも、どんなところでもいいから主に用いられたい、残りの人生を無駄にしたくない、そう口癖のように言っていた義母でした。

主のために生きる人生―自分のために生きるより、はるかに喜びに満ちている人生です。この世の安心や安全を求めて生きるより、はるかに安心で安全な人生です。身に危険は及ぶかも知れません。でも永遠を主と共に過ごすことのできる天のみ国での生活が一段と近づきます。「よくやった、忠実なしもべよ。」と、主の主、王の王が、み前に立たされた時に言って下さるかも知れない希望があります。主のために生きる人生―決して無駄ではない人生です。

ペテロがイエスにこう言い始めた。『ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。』イエスは言われた。『まことに、あなたがたに告げます。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、その百倍を受けない者はありません。今のこの時代には、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け、後の世では永遠のいのちを受けます。』」―マルコ10:28-30

2009/08/20

教職修養会

写真はビーチでブランコに乗って遊ぶ娘です。
18~20日の3日間、教団教職の修養会が海沿いのコンポンソム州で開催され、マシューがセミナーの講師を務めました。主題は「夫婦―キリストと教会の契約関係」、聖書から夫婦の関係がどうあるべきかを、キリストと教会の関係を通して学びました。牧師、信徒に関わらず、家庭内の夫婦関係が薄いこの国で、その国の習慣ではなく、聖書が教えるところの基準に従いたいと聖書を学ぶクリスチャン家庭が起こされるよう、祈っています。

2009/08/07

牧師3人が首をはねられる―ナイジェリア北部

シャリア法を国の法律にせよとイスラム教過激派が運動を起こしているナイジェリア北部で、クリスチャンに対する迫害が強まっています。先週クリスチャン50人 がイスラム教過激派グループ、ユスフィアによって捕えられ、キリストを捨てイスラム教への改宗するよう迫られ、拒んだ牧師3人が、首をはねられ殺されました(Daily Sun6日の記事より)。その3人の牧師のうちの一人は、ユスフィアのリーダー、モハメッド・ユスフに福音を語ったことがあると、改宗を拒んだ時に言ったそうで、その場で首をはねられたそうです。3人の牧師の告別式では黙示録7:9‐15から、主に召されたときにはいつでも死ぬことができるよう、心の用意をしようと、クリスチャンの兄弟姉妹らに呼び掛けがあったということです。

あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。
彼らは大声で叫んで言った。『救いは、御座にある私たちの神にあり、小羊にある。』
み使いたちはみな、御座と長老たちと四つの生き物との回りに立っていたが、彼らも御座の前にひれ伏し、神を拝して、
言った。「アーメン。賛美と栄光と知恵と感謝と誉れと力と勢いが、永遠に私たちの神にあるように。アーメン。』
長老のひとりが私に話しかけて、『白い衣を着ているこの人たちは、いったいだれですか。どこから来たのですか。』と言った。
そこで、私は、『主よ。あなたこそ、ご存じです。』と言った。すると、彼は私にこう言った。『彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。
だから彼らは神の御座の前にいて、聖所で昼も夜も、神に仕えているのです。そして、御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られるのです。』」(黙示7:9‐15)

主に召されたときは、いつでも死ぬ用意が果たして私にはできているだろうか、いや、できていない、と記事を読みながら思わされました。
牧師らの殉教がナイジェリアの兄弟姉妹らの励ましとなるよう、そしてナイジェリア北部で大きな実が実るよう、覚えてお祈り下さい。

2009/08/04

キリストは偉大な救い主

聖書年間通読で、現在ルカを読んでいるところですが、4日のデザイアリング・ゴッドのブログにルカ7:36-50について、以下のような記事がありました。

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「その男の家でイスラエルの聖者が、食卓についておられた。モーセが預言した、その預言者が彼と夕食を共にしておられた。栄光の主、よみがえりでありいのちでおられるお方が、彼と顔を合わせて語っておられたのである。旧約の預言者、王たちが望み見たそのお方がやって来られたのだ。シモンにとっては、メシアをお招きできるなんて、精神が錯乱するほど素晴らしい出来事であるはずであった。

しかしシモンは驚かなかった。彼はイエスを見たが、彼の見たのは埃にまみれた、妄想だと思われてもおかしくないことを自称する、ナザレ人であった。

イエスのみ足は汚れていた。洗足を客にすすめることは、中近東の人々にとっては何千年も深くしみついた習慣であった。洗足をすすめないことは、その客を辱めることであった。シモンがそれを単純に忘れることなどないはずである。

しかしイエスは気を害された気配をまったく見せられなかった。食卓につき、うわべだけのあたりさわりのない話が交わされた。幾つかの質問がなされた。

突然イエスに向いていた目のすべてが心配しているかのように、主のみ足に集中した。イエスは後ろを向かれた。

明らかにこの家の者でない女性が一人、主の側に立ちすくんでいた。女性は小さな壺を片腕に抱き、主をまじまじと見つめていた。そしてむせび泣き始め、膝をついた。涙が溢れるまま、体を前にかがめ、イエスの汚れたみ足に涙を落とし、自分の髪の毛で、汚れと共に涙を拭いた。それからイエスのみ足に接吻をした。

はっと息を飲むのと、つぶやきが食卓を包んだ。この女性には地元の客たちみんなに知られている噂があった。それが噂であるかを公に語ることさえ、不適切であった。女性はただ単に「罪人」と呼ばれていた。それにどのような意味が含まれていたか、全ての人が知っていた。

そのためイエス以外のすべての者が、その罪人の行為に腹を立てた。イエスには驚かれた様子はなかった。そして主は彼女をまったく止められなかった。気づいた僕が女性の方に動きかけたが、シモンが手を振って引きとめた。これはとても意味深い瞬間だ。

イエスのみ足に壺から香油を注ぎ出す女性をじっと見つめながら、シモンは軽蔑と快感を感じた。彼のイエスに対する評価が正しかったことが、目の前で明らかにされた。この不道徳な女性に対する驚くほどの洞察力の欠如ほど、この預言者と言われている人の虚偽を物語るものは他にはない。この女に触れられることによって自分を汚す聖者はどこにもいない。シモンは議会に報告することを思い描き始めた。

「シモン、あなたに言いたいことがある。」イエスのおことばがシモンの注意を戻した。「先生、お話しください。」シモンは答えた。

「ある金貸しから、ふたりの者が金を借りていた。ひとりは五百デナリ、ほかのひとりは五十デナリ借りていた。彼らは返すことができなかったので、金貸しはふたりとも赦してやった。では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるか?」

シモンは答えた、「よけいに赦してもらったほうだと思います。」イエスは言われた、「あなたの判断は当たっている。」

女性の方を向いて、主はシモンに言われた、「この女を見たか。わたしがこの家にはいって来たとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、この女は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あながは、口づけしてくれなかったが、この女は、わたしの足に香油を塗ってくれた。だから、わたしは言う。『この女の多くの罪は赦されている。というのは、彼女はよけいに愛したからである。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛さない。』」

そして女に、「あなたの罪は赦されている。」と言われた。

***
「少ししか赦されない者は、少ししか愛さない。」ということばは、私たちに巨大な真実を現わす―私たちは自分自身の罪の重大さと、神がそれをお赦しになる憐れみの莫大さに気づいた分だけ、神を愛する。

パリサイ人として、シモンは、かなりの神学的教育を受け、旧約聖書を広範囲に渡って覚え、厳格な自己自制を訓練し、詳細に十分の一をささげ、ほとんどの時間を神に「仕えること」に費やし、信心深い者としての評判を楽しんでいたであろう。しかし彼は神を愛していなかった。

一方、自分の恥ずべき罪以外ささげるものが一切なかったこの女性を、イエスはまことの礼拝のモデルだと言われた。なぜか?それは単純に、福音にあるイエスがすすめられる赦しを、女がどれだけ必死になって必要としており、そして主がそれをお与えになることができると信じたからであった。

それがイエスの求められるものである。それが救いにいたる信仰である。

まことの礼拝とは、神に対する熱烈な愛である。私たちのような罪人にとって、その愛の燃料は、深い認識である。元奴隷商人で、牧師に変わったジョン・ニュートンのことば、「私は大変な罪人で、キリストは偉大な救い主であられる」のことばに、それを見出すのである。(ブログ者訳)

2009/08/01

クリスチャン公開処刑―北朝鮮

7月24日のニュースで、3児の母であるリー・ヒョンオク(33歳)という女性が、聖書を配布した罪と、米国と韓国のスパイ容疑で、中国の国境近くに位置するリョンチョンという地域で、今年6月16日に公開処刑されたということです(クリスチャン・ポストより)。ヒョンオクさんの夫、子供たち、両親も、姉妹が処刑された翌日、政治犯刑務所に送られたそうです。北朝鮮では現在でも、聖書を所持している者は、発見された場合、強制収容所に送られるか、公開処刑を受けます。韓国に亡命した北朝鮮人らの中で、救われ、福音を同邦人に伝えたいと母国に帰って行く者たちがいるというニュースを聞いたことがありますが、まさに、死を覚悟での帰国です。

どうぞ、ヒョンオクさんの残されたご家族の上に主の慰めがあるよう、また収容所で守られるよう、命を掛けて聖書を配布したヒョンオクさんのご家族が、ヒョンオクさんの信仰を受け継ぎ、収容所で光となることができるよう、北朝鮮の兄弟姉妹らが厳しい迫害の中でも強められるように、また福音がとどまることなく更に北朝鮮全土に広められ、国家のリーダーたちの耳まで届くよう、覚えてお祈り下さい。

我らの神は生ける神

カンポットではひたすら雨が降り続いています。カンボジアの南部では洪水警報が出ているそうです。


教会牧師、ヴター先生の運営している孤児院の隣に、数週間前ヨーロッパ人が引越してきました。最初は問題もなく隣同士うまくやっていたそうですが、ある些細なことをきっかけにそのヨーロッパ人が憤慨し、牧師に悪口雑言を言うようになり、果ては師が孤児たちに暴行を加えていると近所に噂をふりまき、警察と裁判所が関わってくるほどの大事に発展しました。朝、昼、晩と、塀の向こうからキリスト教の神がいかに悪いかを叫んでいたそうですが、2週間と立たないうちに、そのヨーロッパ人の息子が川で溺れて事故死、本人も息子の遺体を抱えて家に戻った丁度その日、屋内で毒蛇に咬まれ、引越してきたばかりの家を手放すことになりました。近所ではキリスト教の神に対する恐れが起こり、私たちクリスチャンの間でも、主のみ力をこの目で拝見し、改めて畏敬の念に包まれています。

「生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです。」―へブル10:31

2009/07/31

人種間の対立を破壊されたキリスト

 差別意識、偏見は、クリスチャン、ノンクリスチャン、国籍、年齢に関わらず、誰の内にも潜む罪です。黒人奴隷貿易、ナチスのユダヤ人大虐殺、ポル・ポトの大虐殺…すべて一方が他方より優れているという意識の下、行われました。日本人に身近なのは、南京虐殺です。「中国人は下等な人種である」と、日本軍が大量の生きた中国人のからだを、科学的実験に利用し虐殺していきました。
 私自身、自分の内にある差別意識に初めて気づかされたのは、フィリピンで生活をし始めた11年前のことです。「日本人の方がはるかに優れている」と、無意識のうちに絶えず思っていました。結婚当初も夫婦間の諍いのほとんどは、この私の意識が原因で起こったものでした。何度か主にその罪を示され、へりくだららされる体験をしたにも関わらず、未だにこの意識と葛藤するあたり、この罪の根深さを思い知らされています。多くの宣教師らの交わりの中でも、「私の国はカンボジアより優れている」という意識が、会話の中で溢れています。私たち現地で働く宣教師らにとっては特に、偏見、差別意識は日常生活の上での霊的戦いです。

ジョン・パイパー師(ベツレヘム・バプテスト教会)の本、「イエス・キリストのパッション―死ぬために来られた50の理由("The Passion of Jesus Christ-50 Reasons Why He Came to Die")」の44、45章で、師は人種間の敵対心について以下のように教えます。

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キリストこそ…二つのものを一つにし、隔ての壁を打ち壊し、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。」(エペソ2:14‐16)

 「新約聖書時代におけるユダヤ人と異邦人(非ユダヤ人)間の疑い、偏見、そして相手を傷つける態度は、今日における人種、民族、そして国家間の対立と同じくらい深刻であった。…イエスは、人種間の和解に至るまったく新しい道を切り開くため、死なれた。儀式や人種は交わりの基盤ではない。キリストがその基盤である。主は律法を完全にまっとうされた。人々を分け隔てていた律法のすべてが、主にあって廃止されたのである。―一つを除いて―その一つとは、イエス・キリストの福音である。…イエス・キリストは神の御子であられる。神が主を、罪人を救い、人種を永遠に和解させるためのお方、また唯一の手段として、この世にお遣わしになった。もし私たちがこれを否定するなら、永遠の希望と、人々の間の永続する一致の、その土台を崩すのである。人類がこの事実を知り、楽しみ味わうことによってのみ、互いに愛し受け入れ合うことが可能になる。
 …イエス・キリストはある一部族の神ではない。主は一つの文化や一つの民族に属されない。主は『世の罪を取り除く神の小羊』(ヨハネ1:29)であられる。「ユダヤ人とギリシャ人[あるいは他のどのグループ]との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。『主の御名を呼び求める者は、だれでも救われるのです」(ローマ10:12‐13)。」(ブログ者訳)

2009/07/25

カンポット州牧師祈祷会

カンポット州の救いのため共に祈ろうと、超教派福音派の牧師たちが集まって、月一度の祈祷会が3か月前から始まりました。第3回目の今日は、マシューがメッセージの奉仕を依頼されました。およそ15名ほどの牧師たちがカンポットの各地から集まります。この牧師たちの主を知る知識が益々深まり、カンポットのクリスチャンをキリストへとさらに導くことができるよう、それにより福音が更にこの地で前進するように、私たちの切なる祈りです。

2009/07/23

日食

プノンペンポストから拝借した、プノンペンで撮影された日食の写真です。プノンペンでは31%の日食を確認することができたそうです(23日プノンペンポストより)。南アジアで観察できると聞いたので、ここカンポットでも観察することができるかも知れないと、早朝から娘と二人で屋外に出て今か今かと待っていたのですが、カンポットは曇りで、残念ながらまったく見ることができませんでした。

カンボジアでも、諸外国と同じように、日食、月食には不運がつきもの、という迷信が人々の間で信じられており、日食に合わせて寺にお参りに行くとその不運を避けられると、沢山の人々が寺に参拝に行きます。そのような迷信に束縛されない、それら偉大な万象を造られた創造主を心から礼拝することができるクリスチャンの人生は、何と自由だろうと思います。

天に目を上げて、日、月、星の天の万象を見るとき、魅せられてそれらを拝み、それらに仕えないようにしなさい。それらのものは、あなたの神、主が全天下の国々の民に分け与えられたものである。」-申命記4:19

2009/07/21

信仰の試練―迫害

主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
…たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。」(詩篇23:1、4)
 
 
 死の陰の谷を通されている世界各国のクリスチャンの兄弟姉妹らのことを思うと、私の悩みは何と小さいことかと、良く思わせられます。
個人的ですが、私の母方の祖父母は戦時中、クリスチャンであるがゆえに「耶蘇教」と呼ばれ、迫害を受けました。祖父は当時国鉄で働いていたのですが、毎朝天皇礼拝の時に頭を下げなかったため、上司から足で頭を蹴られたり、床に踏みつけられたり、職員が一番嫌がる仕事をさせられたそうです。祖母は毎日の米の配給をもらえなかったり、近所の人たちから口を聞いてもらえなかったり、夫が帰宅すると職場で嫌がらせを受けるのに耐えられずにやけ酒に走るし、果ては子供たちが「耶蘇教」と呼ばれ石を投げつけられるのを見て、毎晩涙を流して主にすがったそうです。世界中のクリスチャンたちが直面している迫害に比べたら、大したことはない迫害ですが、この迫害が祖父母の信仰を大きく成長させたことは、晩年の祖父の口癖、「私は罪人のかしらです」(1テモテ1:15)から推測することができます。
 
聖書は、「キリスト・イエスにあって信心深く生きようとするクリスチャンはみな、迫害を受ける」(2テモテ3:12)と教えます。またこの「信仰の試練は、火を通して精錬されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るもの」(1ペテロ1:7)である、とも教えます。迫害に遭った時に、詩篇の作者らと共に、「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私と共におられますから」、「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました」(詩篇119:71)、と言うことができるようなキリスト者に成長させられたい、そう願います。

2009/07/20

お祈り下さい3

ソマリアでもイスラム教徒によるクリスチャン迫害が過熱化しています。
20日早朝、マハッダイ・ウェインという村で、元イスラム教徒のクリスチャンがイスラム教過激派のアル・シャバーブ(アルカイーダと関係)によって銃殺されたということです(Compass Direct Newsより)。このグループは「浄化」のためという名目で国中のキリスト教に改宗した元イスラム教徒たちを監視しており、今月10日にも国境沿いの難民キャンプで、7人のクリスチャンの首を切る公開処刑を行い、またクリスチャン女性らに乱暴を加えているそうです。

どうぞソマリアのクリスチャンがこの試練の中で益々光を放つことができるよう、処刑によって両親を失った孤児たちに主が良い避難場所をお与え下さるよう、また不可能なことは何一つない主が更に国内で福音を聞いて救われる者らを起こして下さるよう、覚えてお祈り下さい。

2009/07/19

お祈り下さい2

激戦が続いているパキスタンとアフガニスタンの国境ですが、それと同時にタリバンの矛先がクリスチャンに向けられており、最近、「お前たちがクリスチャンであるのは分かっている。この地域を離れるか、イスラム教に改宗して150万ルピー($18,500)を支払うか、あるいは自爆テロの攻撃に遭うかのいずれかを選択することを命令する。」という手紙をパキスタンのあらゆる教派の教会に送りつけているということです(18日のpersecution.orgより)。最近もパキスタンで、複数のクリスチャンが背教を拒んだために、過激派のイスラム教徒たちによって残酷な方法で殺されており、クリスチャンたちは試練に直面しています。愛する者を失ったクリスチャンの兄弟姉妹が慰められるように、また移動に移動を続けている兄弟姉妹たちに落ち着ける良い場所が与えられるように、そして行く先々で福音が更に広められるように、どうぞ覚えてお祈りください。

2009/07/15

お祈りください

イラクの主要都市から米軍が撤退しましたが、 13日のニュース(CNN.com)で、モスルやその他のバグダッド近郊の都市で、礼拝中のクリスチャンの集会に爆弾が連日投下され、すでに4人が死亡、35人が重傷を負ったということです。イラクでは今回の戦争で約100万人のクリスチャンが国外逃亡、昨年10月にモスルでは、クリスチャンをイスラム教に改宗させようとし、拒否した多くのクリスチャンが殺害されています。どうぞ、イラク人クリスチャンたちのため、迫害の中にあって信仰が更に強められ、逃亡先で光となるよう、またこのことを通して福音が中近東で更に広められるよう、お祈りください。

2009/07/14

洪水

2006年5月に起こったカンポット市内の洪水の様子です(F.E.A.R.から拝借)。カンポットは海沿いの州であるためか、時々大きな洪水が起こることで有名です。これほどひどくはないのですが、数日前の大雨で、市内郊外の多くの家が床上浸水、私たちの宣教師仲間の家の何件かも床上浸水で、大変な被害を受けました。先週引越してきたばかりの宣教師一家の家などは、床上1mの浸水被害に遭い、電化製品すべてが故障、ほとんどの家具も台無しになってしまいました。泥だらけになった家を掃除するため、早速宣教師たちが集まりました。「なぜ…」という落胆が、一家を覆っています。私たちの家が同じような目に遭っていたら、私たちも途方に暮れただろうと思います。

だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。」(2コリント4:16‐18、口語訳)

死に面したこともしばしばあり、39回のむち打ちの刑を5度、石で打たれたことが1度、難船したことが3度、一昼夜海の上を漂い、同邦、異邦人から迫害を受け、盗難に遭い、眠られない夜を過ごし、飢え渇き、空腹に耐え、寒さに凍え、着る服がなかったこともある使徒パウロ(2コリ11:23‐27)が、それらの患難を「軽い患難」と呼ぶのです。なぜならそれらは私たちに、あふれるばかりの「永遠の重い栄光を」得させるからである、と言います。「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。」(ローマ8:18)とも。滅ぶことのない栄光のからだ、新天地、御子、み父と共に過ごすことのできる永遠に比べれば、現在の色々な苦しみ、悩みは、取るに足りない…私たちの想像を超える患難を通った人のことばです。困難の中でそのように言うことができるように、助けて下さいと、主に祈ります。

2009/07/13

ドロス号来訪

ドロス号がシハヌークビル港に到着しました。タイタニック号が造船された数年後(1914年)に造られた船だそうで、世界で最も古い船の内に入るそうです。このドロス号ですが、キリスト教書籍約6,000冊を販売しており、世界の、特にキリスト教書籍購入が難しい国を回り、現地の経済に沿った価格で書籍販売をしています。カンボジアにも毎年来訪していますが、なぜか、クリスチャンでない隣の大家さんも船を見学に行ったことがあるほど、有名な船だそうです。私たちも今回教会の兄弟姉妹たちに誘われて、初めて行ってきました。天気が悪く波が高かったため、船体がかなり揺れ、気分が悪くなってほんの30分ほどで下船してしまいましたが、書店はカンボジアではまず見られないほど、大層な大きさでした。

2009/07/11

神の声

lightningphotos.comから拝借した稲妻の写真です。まだ雷鳴が続いています。雷と稲妻と言えば、雷鳴は神の声であると、聖書は教えます(2サムエル22:24、詩篇18:13、77:18、104:7、ヨブ40:9)。新約聖書では、天から語られたみ子に対するみ父の声を、聞いた人々は雷鳴だと思ったと記しています(ヨハネ12:29)。

「主の声は、水の上にあり、栄光の神は、雷鳴を響かせる。主は、大水の上にいます。
主の声は、力強く、主の声は、威厳がある。
主の声は、杉の木を引き裂く。まことに、主はレバノンの杉の木を打ち砕く。
…主の声は、火の炎を、ひらめかせる。
主の声は、荒野をゆすぶり、主は、カデシュの荒野を、ゆすぶられる。
主の声は、雌鹿に産みの苦しみをさせ、大森林を裸にする。その宮で、すべてのものが、「栄光。」と言う。」(詩篇29:3-9)

雷鳴がとどろくたびに、この詩篇を思い出します。

天の父が降らせて下さる雨

雨季に入ったというのに、このカンポット州ではこの3週間雨がほとんど降らず、乾季の最も暑い季節のような猛暑でした。近所の田んぼもせっかく田植えを済ませたばかりと言うのに、水が蒸発してほとんど乾いてしまっており、農業を営んで生活している教会の人たちのことを思うと、「主よ…」と祈らずにはおられないこの頃だったのですが、ようやく今日、雷、稲妻と共に、激しい雨が降り始めました。娘は雨漏りのする台所で、躍り上がって、「雨だ!主をほめよ、主をほめよ~」と、叫んでいました。雨は天の父が降らせて下さるもの、まことに、主をほめよ、です。

「天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。」(マタイ5:45)

2009/07/09

カレン族

少数部族に対する政府軍の攻撃が続いているミャンマーですが、今日の宣教ネットワークニュース(Mission Network News)で、約60%がクリスチャンであると言われているカレン族に対し、政府軍の矛先が上がったようで、カレン族の居住する地域が軍によって包囲され、ロケット弾が撃ち込まれ、マシンガンを持った兵士が生き残っている村人を片っ端から殺害しているそうです。女性は強姦され、男性は生きたまま火をつけられ…昨年起こった、インドのオリッサでのクリスチャンに対する迫害を思わせるような状況です。タイ国境の難民キャンプに逃げた人々に対しても、ロケット弾を撃ち込んだりしているそうで、政府軍の少数部族に対する攻撃は、私たちが一般メディアで聞く以上に、深刻なようです。私たちにとっても、ミャンマー人の友人が数人いますので、他人事ではありません。

厳しい状況の中で、ミャンマーのクリスチャンたちの信仰が更に強められ、福音を人々に語る勇気が与えられるよう、またキリストのみ名がこの迫害の中にあっても崇められますよう、覚えてお祈り下さい。

2009/07/07

天は神の栄光を語り告げ

近所の塩田で撮った夕焼けです。主の創造のみ業に思わずひれ伏し、主を礼拝してしまうような、美しい光景です。

天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。」(詩篇19:1)

2009/07/06

カンニング

カンボジアの公立中学校で一斉に期末試験が行われました。カンボジアではカンニング、あるいは試験監督に賄賂を渡して試験をパスさせてもらう、というのがごく一般的で、生徒を試験に合格させるため、一年に数回あるこの全国試験で親も子と共にあらゆる手段を尽くします。最近外国の影響を受け、それがいけないのではないか、という世論もあり、政府は軍を導入してカンニングと賄賂の受け渡しを阻止しようと努力し始めたのですが…大した効果はないようです。地元新聞でも、最高で$80(約8,000円)に至るような賄賂の受け渡しがあったと、掲載されていました。このカンニングと賄賂、カンボジアでは大変根深い問題で、子ども社会、大人社会を問わず、当然のように行われています。日本でも無いわけではないのですが、カンボジアでは隠さずに、堂々とやってのけるのが日本と違うところだと言えます。

2009/06/19

わざわいも幸いも

カエップ州にある山から見渡した、タイ湾を囲むカエップ(手前)とカンポット(向こう)州です。天気のいい日には向こう側に広がるボコ―山を見ることができます。

教会員のバナナ畑のおよそ200本あるバナナの木が、先日の嵐ですべて倒れてしまいました。バナナを売って生活をしていた家族ですが、食べるものも一切ないほど苦境に陥っているらしいという話を人伝いに聞き、先週教会員揃って、貯めてきた献金で50㎏の米を買って家族に持って行きました。その後どうしているだろうかと昨日一家を訪問したのですが、ご夫婦涙を流しながら、素晴らしい証しを聞かせてくださいました―「嵐の翌日、同じバナナ畑を持っている近所の人から、畑のバナナの木が全て台無しになったと聞き、急いで自分のバナナ畑に出かけたら、案の定、木がすべて倒れていました。でもその凄まじい状態を見ても心が騒がず、むしろ主に感謝したのです。私たちは罪人で、主の憐れみを受けるにふさわしくない者。主が恵んで下さったらそれは感謝。恵んで下さらなくても、それは当然と教会で学んでいますので、平安でいることができました。数日後、畑から主を賛美しながら帰ってきたら、米の入った袋が家の軒下においてあったのです。他の教会員に尋ねたら、『主からの恵みでしょう』と言われ、主の御名を心から賛美しました。まことに主は憐れみ深く、その恵みはとこしえに絶えることがありません。」

私たちはとかく、創造主は私たちに恵みを賜るお方で、災いをお与えになる方ではない、災いは悪しき霊から来る、と思いがちですが、聖書は実は、わざわいも幸いも、共に主から来ることを教えます。
哀歌3:38「わざわいも幸いも、いと高き方の御口から出るのではないか。」
イザヤ45:7「わたしは光を造り出し、やみを創造し、平和をつくり、わざわいを創造する。わたしは主、これらすべてを造る者。」
アモス3:6「町でラッパが鳴ったら、民は驚かないだろうか。主がなされるのでなければ、町に災いが起こるだろうか。」(口語)
ヨブ記のヨブの通された苦難は、このみことばを証しします。でも同時にその中で、主は私たちが苦しみのときに主に呼び求めるよう教えてくださり、私たちが呼び求めるとき、憐れみをあらわして下さいます。
彼が、わたしを呼び求めれば、わたしは、彼に答えよう。わたしは苦しみのときに彼とともにいて、彼を救い彼に誉れを与えよう。わたしは彼を長いいのちで満ち足らせ、わたしの救いを彼に見せよう。」詩篇91:15、16
苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。」詩篇50:15

苦しみの時にも共にいて、私たちに主を求めさせて下さる主に心から感謝します。一家を通してさらに主のみ名が崇められますように。

2009/06/14

新生児

教会員の夫婦に女の子が生まれました。お父さんはベトナム人、お母さんはチャム人(イスラム教民族)、夫婦共々カンボジアでは少数民族の部類に属します。奥さんのスライソーさんは昨年流産を経験、教会員みんなで、赤ちゃんが与えられるように祈っていて、主に与えられた子です。教会の兄弟姉妹らと共に喜びました。
私たちが訪問した時はまだ名前を付けておらず、聖書から名前を付けたいと、お父さんのチアさんは聖書の女性の名前を私たちに確認してきました。名前はどうやらアブラハムの妻の「サラ」という名前になりそうです。この子を通して、主がご夫婦を更にご自身に近づけて下さるように―私たちの切なる祈りです。

2009/06/12

キリストが苦しんで死なれた50の理由

度々ご紹介しています、ジョン・パイパー師(ベツレヘム・バプテスト・教会)の本、「イエス・キリストが苦しんで死なれた50の理由」が、クメール語に翻訳され一ヶ月前に出版されました。日本語を含め、複数の言語に既に訳されているこの本、クメール語にも訳されるようにと私たちも1年前から祈っていたのですが、ようやく、実現しました。この本を通して、主が多くの人の目を開いて下さり、キリストが受けるにふさわしいそのご栄光をこのカンボジアでお受けになるよう、祈っています!

2009/06/09

「おどりあがって喜びなさい」

カンボジアではどこでも見かける水牛ですが、黒い水牛の中で、一頭だけ肌色の水牛がいるのが分かりますでしょうか。カンボジアにきて肌色の水牛を初めて見ました。

一年前に新しい場所に新居を構えた教会の姉妹が、最近近所の人たちから辛く当られ、陰口を言われ、口もきいてもらえなくなったと、話してくれました。どこに行っても救われた証し、またキリストの話をする姉妹ですが、何を話してもキリストのことしか言わない姉妹に、近所の人たちが嫌気がさしたというのです。「あんたは狂ってる」、「キリストは西欧の宗教だ」などと、言われ続けているということです。

キリストは私たちがキリストのゆえに迫害を受ける時、このように言われます、「人の子のために、人々があなたがたを憎むとき、また、あなたがたを除名し、はずかしめ、あなたがたの名をあしざまにけなすとき、あなたがたは幸いです。その日には、喜びなさい。おどりあがって喜びなさい。天ではあなたがたの報いは大きいからです。」(ルカ6:22、23)と。もし私が迫害されたら、果たして喜びおどることができるだろうかと、姉妹の話を聞きながら考えさせられました。かたやキリストを語ってやまないがために近所に嫌がられる姉妹のそばで、近所に嫌がられるほどキリストを語っていない自分を、恥ずかしく思ってしまいました。主の憐れみを請います。

2009/06/04

暴風雨

一昨日から昨日にかけて、大雨が降り続き、特に昨日は暴風雨に見舞われました。カンボジアに来て初めて体験した暴風でしたが、強風で、何と、教会の敷地内にある建物が全壊してしまったのです。この教会の敷地ですが、もともとフランス・アッセンブリー教団が6年前に保養施設としてこの敷地を買い取り、バンガロー6つを建て、そのうちの一つを礼拝場所として、カンポット・アッセンブリー教会が使用させてもらっており、非常に簡素な造りの上に、メンテナンス全くしていないので、今回の強風で、その6つのバンガローのうち、2つが全壊、一つが傾いてしまいました。自然災害がほとんどないと自慢しているこの国ですが、自然災害が起こった時に遭うであろう被害の、ほんの一部を目の当たりにしたかのようです。

2009/06/01

遠足

今日は子供の日で、カンボジアは公休日です。プノンペンのアッセンブリー教団教会が、ユースを連れてカエップ州に遠足にやってきました。救われていない人たちも沢山いるということで、是非福音を語って欲しいとマシューが招かれ、海辺で短い時間礼拝を持ったのですが…雨季のさ中の快晴、すぐにでも泳ぎたくて仕方ない若い人たち、礼拝中も心ここにあらずで、そわそわしていました。聞いてくれる人がいようがいまいが、福音を語る機会が与えられたら福音を語ります。後は主のみ手の中です…

2009/05/20

コッコン州(その2)

雄大な自然に囲まれたこのコッコンにも、大きなイスラム教徒村があります。カンボジアのイスラム教部族であるチャム族は、主に漁業を営んでいる民族で、その大部分が川、湖、海周辺で共同体を作って生活していますが、このコッコンも海沿いにある州であるため、多くのチャム族が生活しています。このコッコンにいるチャム族に対し伝道している宣教師はまだ起こされていません。収穫の主が働き人をこのチャム族たちに送って下さるように―私たちの祈りです。

コッコン州

コッコン州へ行くのには3つの大きな橋を渡って行くのですが、この橋がなかった昨年6月までは、フェリーで向こう岸へ渡らなければならず、何とプノンペンから約10時間かかったそうです。橋ができてからは、約4‐5時間でたどり着くことができるようになりました。最初の橋を渡る直前から、カンボジアの他の地方ではあまり見ない、カーダマムと呼ばれる山地の雄大な景色が目に入ってきます。写真の道路標識、実はゾウの標識です。野生のゾウが生息しているそうです。主の被造物の雄大さを目の当たりにすることのできる、とても美しい地域です。

2009/05/19

わたしは…わたしの教会を建てる―キリスト

カンポットから西へ約300㎞走ると到達する、コッコン州に出かけたのですが、タイ国境すぐ近くの、街から20㎞ほど離れた「僻地」と言う言葉がぴったりの村で、なんと3人の娘がいるクリスチャン夫婦に出会いました。ご夫婦ともプノンペンで仕事をしていたそうですが、隣に引っ越してきた中華系クメール人のクリスチャン一家からキリストの話を始めて聞き、お嬢さん二人がそのクリスチャン一家に連れられて教会に行き始めます。ある日奥さんの方が、子どもたちに誘われて教会に出かけ、救われ、ご主人も最終的に教会に行くようになり、2005年にバプテスト教会で洗礼を受けました。
 クリスチャンになってからの生活はバラ色だったわけではなく、その後も貧しい生活が続き、頼りにした人たちからは片っ端から裏切られ、ご主人は日曜日も仕事の休みが取れず礼拝に出なくなり、全てがうまくいかなくなったとき、聖書のアブラハムの話から、主を第一とすること、人は裏切るが、主は決して見捨てられることがない、主に頼る時に、主が導いてくださりその必要の全てをお与えくださることを教えられ、日曜でも家族一緒に礼拝に行くことができるような、ファミリー・ビジネスをできる場所を求め、プノンペンを離れます。そしてたどり着いたのがこのコッコンの国境沿い。一文無しでやってきたのですが、ビーチ沿いに小さな食堂を立てることができ、しかもバプテスト教会が隣村に建ち、そこで日曜日は一家揃って礼拝しているそうです。「人に信頼して生きていた時は、お金にいつも困っていた。でも主に信頼することを学び始めて以来、主が必要の全てをお与え下さっている。今は足りないものは何一つないんです。日曜日には礼拝に一家そろって行くことができ、週の半ばは食堂に足を運んでくる人々にキリストを証しできる。主は本当に素晴らしい!」と、街の食堂と比べると決して上等とは言えないような小さな食堂で、一家そろって喜びに溢れんばかりに証しして下さいました。
 「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。」(マタイ16:18)と主が言われるように、主がこのような地でもご自身の教会を建てておられるのだと、ご夫婦の証しを聞きながら、主のみ名を心から賛美しました。とても励まされた3時間でした。

2009/05/14

収穫の主

カンポット州でも今年最初の田植えが終わり、田んぼが緑で潤っています。日本でも雨に見舞われましたが、カンボジアでも私たちが帰国して以来、大雨が続いています。雨季到来です。今週は国王の誕生日等で一週間の休暇ですが、昨日、今年の収穫度を占う占い祭がプノンペンで盛大に行われたとニュースになっていました。
古から人々はありとあらゆる神に豊作を祈ってきていますが、私たちクリスチャンは、豊作も不作も、収穫はすべて創造主なる神のみ手のうちにあると知っているので、この世の風習に束縛されることなく、安息のうちに農業に携わることができます。伝道も同じです。何と素晴らしい安息でしょう!

収穫は多いが、働き人が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」(マタイ9:37,38)

2009/05/10

母の日

母の日です。カンボジアには母の日がないので、ついつい忘れがちなこの日ですが、ディザイアリング・ゴッド(DesiringGod.org)のブログを読んで、日頃母に払うべき敬意を払ってきていない自分に気づかされ、悔い改めさせられました。「世代が違うから」ではなく、「聖書がそう教えるから」、敬わなければならない、母の生きている間に、親孝行をさせて下さいと、改めて祈らされた母の日でした。以下、「あなたの母親の教えを捨ててるな(Do Not Forsake Your Mother's Teaching)」から抜粋した訳です。私を生んで育ててくれた母に、改めて心から感謝。
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 箴言は、「ダビデの子、イスラエルの王、ソロモンの箴言」で始まる。ソロモンは偉大な王で、偉大な王の息子であった。それは彼が有名で、影響力があり、すべての分野において最高位であったことを意味する。人々は彼の前でひれ伏した。彼が言うことを行った。彼には計り知れない権威と名声があった。
 その彼が、この高い地位で、どのように母親を扱ったのだろうか?あなたは彼の母がバテシェバであったことを思い出すだろう。彼女は父ダビデと、醜い状況―神にとって非常に不快な状況、の下で結婚した。しかし彼女はソロモンの母親であり、1列王記2:19は以下のように言う。「バテシバはアドニヤのため、王のもとへ行った。王は立って迎え、彼女を拝して王座に着き、王母のために座を設けさせたので、彼女は王の右に座した。」それから彼らは会話をした。
 彼は彼女のために立ち上がり、彼女を拝した。母と会話をするため、彼の側に座を設けさせた。彼女は彼の母であった。王でさえ、母が広間に入って来る時には、身をかがめなければならなかったのである。…ソロモンは箴言の一章でこのように書いている、
わが子よ、あなたは父の教訓を聞き、母の教を捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい冠となり、あなたの首の飾りとなるからである。」(箴言1:8-9)
年老いた母を軽んじてはならない。」(箴言23:22)
あなたの父母を楽しませ、あなたを産んだ母を喜ばせよ。」(23:25)
 あなたの母親の教えを軽んじてはならない。それらはあなたの頭の麗しい冠、母の頭の喜びの冠となる。

2009/05/07

日本は寒かった…

娘より一か月年上のはとこです。一年ぶりの再会でしたが、その成長の早さに驚かされました。ところで日中最高気温39度の国からやってきた私たちにとって、日本の寒さは身にしみました…特に滞在後半は雨が止まず、気温も15度まで下がりました。たかが15度、されど15度。娘も「寒い!」と口癖のように言っていました。カンボジアの暑さが妙に恋しかった1週間でした…。

2009/05/04

日本一時帰国

教団60周年記念宣教大会のため、日本に一時帰国しました。写真は、訪れた教会で娘と遊んでくれた、りり子ちゃんです。大勢の方々に遊んでもらい、娘も「楽しかった!」と連発していました。日本に行く前は、「ありがとう」という日本語がいまいちうまく言えず、「ヘアリーゲッコー(毛深いやもり)と言っていた娘ですが、日本を出国する頃には、ちゃんと「ありがとう」と言えるようになっていました。遊んでくれたお友達、ありがとう!!

2009/04/24

キリストの名が新聞記事に

今日の新聞(プノンペン・ポスト)の記事に、「キリスト」の名が掲載されました。ドーイッ被告の裁判が、いよいよ強制収容所S-21の話に移り、クメール・ルージュの実態が徐々に明らかになるかという時、被告が自首に至った理由が、「キリストによるもの」であることを、公の裁判の場で言述したと言うのです(プノンペン・ポスト、4月24日記事)!!クメール・ルージュの一幹部であったフン・セン首相が、裁判にかけられないといけないのではないかという外国メディアの報道を嘲笑し払いのけたそうですが、このカンボジアでは自分の罪を告白する習慣がありません。そういう中、各新聞が、「カンボジア人たちはなぜドーイッ被告が自分の罪を素直に認めているのか理解に苦しんでいる」と報じたのですが、それが「キリストのゆえ」であるとドーイッ被告自身が本日言述、まさに「主に栄光!!!」です。この裁判の模様はラジオで生中継されており、多くのカンボジア人が家庭で、職場でこの中継に真剣に耳を傾けているのですが、今日、キリストの名が、カンボジア全土に響き渡りました。

主に栄光!!!

2009/04/20

猛暑

カンポット州にあるボコー山の麓で、ハイキングをするマシューです。ここ数週間、水遊びがしたくなるような、日中気温39度といううだるような猛暑が続いています。カンボジア生まれで暑さに強い娘も、さすがにこの暑さで、しかも停電が頻繁に起こるため扇風機を使えない時があり、体中にあせもができてしまいました。時折「あっちっち~」とあせもを掻きむしりながら言っています。今日、障害者のために建てられた施設の開所式が近所であり出かけて来たのですが、この暑さにも関わらず、長そでに被りものをしているイスラム教徒の女性たち、さすがに暑そうでした。彼女たちはあせもはできないのだろうか…式最中、そんなことを真剣に考えてしまった私です。

2009/04/19

キリストに従うこと

デザイアリング・ゴッド(DesiringGod.org)のブログで見つけたトラクトです。「繁栄の神学を矯正するトラクト」とタイトルが付けられていました。挿絵の下に、「神はあなたを愛しておられ、あなたの人生のため素晴らしいご計画がおありになる」と説明がされてありますが、絵自体は、ローマ帝国時代に頻繁に行われたクリスチャンの処刑です。つまり、神の私たちクリスチャンに対するご計画は、私たちがこの世の安心や快楽を持つこと、楽な生活を送ることではなく、神だけがお与えになることができる、永遠に続く安心と喜び、楽しみ、つまり、神ご自身であること、そのために神は私たちが依存するこの世のすべてのもの(時には私たちのこの肉体でさえも)を取り除かれる、という意味です。デートリッヒ・ボンヘッファーの本、「キリストに従うこと(the Cost of Discipleship)」を思わせるような絵です。 
だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。」―マルコ8:34-36

2009/04/12

なぜキリストは苦しんで死なれたのか?

私たちの罪のため十字架にかけられ、死にて葬られ、3日目によみがえられた主イエス・キリストのみ名を崇めます。イースターとは言うものの、なぜキリストが苦しんで死なれたのか、その理由を深く掘り下げて学ぶことは、私たちはあまりありません。度々ご紹介しています、ジョン・パイパー師の「イエス・キリストの受難(the Passion of Jesus Christ)」の第一章で、師はキリストの受難の第一の、そして最も重要な理由は、「神のみ怒りを吸収するため」であると、みことばを通して説明しています。読むと、改めてキリストが成してくださったみ業をほめたたえずにはいられません。このイースターの日、キリストが受けるべき栄光を受けられますように!
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キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。(ガラテヤ 3 : 1 3)

神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。(ローマ 3 : 2 5)

私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(1 ヨハネ4 : 1 0)

(引用)もし神が義であられなかったら、御子が苦しんで死ぬことを要求されなかったであろう。そしてもし神が愛であられなかったら、御子は苦しんで死ぬことをいとわずに喜んでされることはなかったであろう。しかし神はともに義であられ愛であられる。それゆえ主の愛はご自身の義の要求を満たそうと意図される。主の律法は、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申命記6:5)と要求する。しかし私たちすべてのものは、神より他のものを愛している。罪とはこれである―神以上に他のものを好み、それらの好みに従って行動することにより、私たちは神を侮辱する。ゆえに、聖書は、「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、」(ローマ3:23)という。私たちはもっとも楽しいことを称賛する。そしてそれは神ではないのである。
 それゆえ罪は小さくない。なぜならそれは小さい主君者に対して犯すものではないからだ。侮辱の深刻さは、侮辱された方の尊さに値する。天地万物の創造者は、尊敬と賞賛と忠誠を受けるに無限にふさわしいお方である。ゆえに、主を愛さないことは、ささいなことではない―それは反逆罪である。神を中傷し、人類の幸福を破壊する。
 神は義であられるので、天地万物のこれらの犯罪を伏せられない。主は彼らに対し聖なるみ怒りを発せられるのである。彼らは罰せられるにふさわしく、主はこのことを明確にされている、「罪から来る報酬は死です」(ローマ6:23)、「罪を犯した者は、その者が死ぬ」(エゼキエル18:4)と。
 聖なる呪いがすべての罪の上にかかっている―この世が不義であることをさばかない、神の価値を下げることが支持される、偽りが事実の中心を支配する…それゆえ、神は言われる、「律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。」(ガラテヤ3:10、申命記27:26)と。
 しかし主の愛は、罪深い人類の上にのしかかっている呪いに安息しない。主はたとえどんなに聖いお方であられても、み怒りを現わすことを喜ばれない。であるから神は、そのみ怒りを吸収させるため、神に信頼するすべての者の呪いを背負うため、ご自身の御子をお送りになったのである。「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。」(ガラテヤ3:13)これが、前述の引用句(ローマ3:25)にある「なだめの供え物」ということばの意味である。身代わりを与えることによって、神のみ怒りを取り除くということを、表わす。身代わりは神ご自身が備えられる。身代わりのイエス・キリストは、み怒りを取り消すだけでなく、吸収され、そして私たちに向けられていたみ怒りをご自身へとそらされるのである。神のみ怒りは義であり、撤回されることなく出し尽された。
 神を軽くあしらったり、そのご愛を価値のないものにするのはやめよう。私たちの罪の深刻さと、私たちに対する主のみ怒りの義を考慮しない限り、神に愛されることを畏れをもって驚くことはない。しかし、恵みにより、私たちの価値のなさに気づかされる時、キリストの苦しみと死をみて、「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、[神のみ怒りを吸収するための]なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです」(1ヨハネ4:10)と言うであろう。(20-21ページより、ブログ者訳)

2009/04/08

クメール正月と停電

クメール正月がやって参りました。実際の正月は14-16日なのですが、学校も商業も、すでに今週から休暇に入り、カンポット、カエップ州とも帰省客で賑わっています。この休暇ですが、約2週間続きます。カンポット州は都会からの帰省で、突然の人口増加に電力が間に合わないためか、毎年正月の期間はひどい停電が起こります。私たちの住んでいるチョムクリール村では昨日は16時間停電が続き、この猛暑で冷蔵庫のものがすべてダメになってしまうだろうと思っていたのですが、電気が戻ってから冷蔵庫を開けたらまだ冷たい!小さなことでも憐れんでくださる主に、心から感謝しました。

主人の再臨に備えて

写真はプノンペン・ポストから拝借した、タイとの国境で警備をするカンボジア人兵士です。プレヴィヒア州における タイ国境沿いでの兵士同士のにらみ合いが始まって9か月に入りますが、先週3日タイ軍のちょっとしたミスが銃撃戦に至り、タイ側3人の死者を出す事件が起こりました。ベトナムに家族がいる私たちの友人は、カンボジアとタイの間で戦争が起こったら、いつでもカンボジアを支援できるよう、二人の弟が軍に招へいされたと話してくれました。また先週タイ外相が発言したカンボジア首相に関するコメントが首相の気に障ったとか何とかで、両国間の関係の溝を益々深めており、地元のニュースでは両国間で戦争が間もなく始まるのではないか、と人々の恐怖をあおっています。

でもクリスチャンにとっては今のこの時は、恐怖に縛られるときではありません。キリストはこの世の終わりに関して次のように言われます、「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、…しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。…これらのことすべてを見たら、あなたがたは人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。」(マタイ24:7、8、33)と。クリスチャンにとってこの世の終わりを思わせるこの不安定な時代は、主人(キリスト)の再臨に備えるときであります。

主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食事をきちんと与えるような忠実な思慮深いしもべとは、いったいだれでしょうか。主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。まことに、あなたがたに告げます。その主人は彼に自分の全財産を任せるようになります。」(マタイ24:45-47)

2009/04/01

「私は犯したすべての殺人を悔いる」―ドーイッ被告

引き続き行われているクメール・ルージュ裁判ですが、昨日行われた裁判の席で、被告人ドーイッ被告が、「私はポル・ポト政権下で犯したすべての殺人を悔いる」と告白したと、新聞(カンボジア・デイリー)のトップに掲載されていました。「現在、世間一般の人々は私を臆病もの、あるいは人でなしだと、みなしている。私はそれらを正直に、尊重して受け入れたい」と、与えられた約30分間、告白したそうです。主がドーイッ兄に力とことばを与えて下さり、行った罪の告白を、はっきりできるように、それによってキリストの光が放たれるようにと祈って来た私たちですが、兄の裁判の被告席での告白を聞いて、主のみ名を崇めました。国連が、飛び交っている賄賂等の腐敗を止めようとしても埒が明かないような(プノンペン・ポスト参照)、またドーイッ被告以外の被告全員がポル・ポト時代に行った一切の犯罪を否定しているこの裁判で、ドーイッ被告の率直な告白が、人々を驚かせ、戸惑わせています。キリストが、ドーイッ兄の告白を通して益々栄光をお受けになるよう、引き続き祈っています。

2009/03/29

マシュー、親知らずを抜く

木曜日にマシューが下の親知らずを二本抜きました。親知らずが歯肉を破って上に生えておらず、隣接の歯を押しながら横に生えており、アメリカでも、日本でも、歯科医から「早めに抜いたほうがいいよ」と言われていたのですが今日まで残してしまい、ドイツ人のいい歯科医がいると聞き、ようやく抜歯の決意をしたのでした。日本で抜歯をした時も驚かれたのですが、歯そのものが大きいのと、歯根が3つに分かれているため、抜歯に困難を極め、2時間にわたる大手術になりました。術後4日経った今日も、まだ頬の膨れが引いおらず、食べ物もほとんど喉を通りません。今日は礼拝の説教もままならず、兄弟姉妹たちの憐れみを請いながらの奉仕でした。でもマシューいわく、「迫害を受けて殉教していっている世界中の兄弟姉妹に比べたら、こんなの痛いなんて言ってられないよな~。」親知らずを全部抜いても痛みを一切感じず、術後の回復も極めて早かった私には分からない痛みですが、同情する振りだけはしています(笑)。

2009/03/28

世界の兄弟姉妹たちは今

『フォックスの殉教者たちの本("Foxe's Book of Martyers" Bker Book House出版)』は、初代教会から始まって1500年代に至るまで、兄弟姉妹たちがどのように殉教していったかを詳細に記録しており、息を飲みながら読まされますが、キリストにある信仰のゆえに殉教していく兄弟姉妹の数は、この21世紀においても、減るどころか増える一方です。黙示録6章9-11では殉教者数が神によってあらかじめ定められていることが暗示されており、驚かされます。

小羊が第五の封印を解いたとき、私は、神のことばと、自分たちが立てたあかしとのために殺された人々のたましいが祭壇の下にいるのを見た。彼らは大声で叫んで言った。『聖なる、真実な主よ。いつまでさばきを行なわず、地に住む者に私たちの血の復讐をなさらないのですか。』すると、彼らのひとりひとりに白い衣が与えられた。そして彼らは、『あなたがたと同じしもべ、また兄弟たちで、あなたがたと同じように殺されるはずの人々の数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいなさい』と言い渡された。」

最近また、キリストにある信仰のゆえ、迫害され殺されていった兄弟姉妹のニュースが何件かありましたので、そのいくつかをここでご紹介します。神によってあらかじめ定められ、殉教していった兄弟姉妹たちです。キリストにある信仰のゆえに殉教したりすることがない日本やカンボジアでは、他人事のように感じてしまいがちですが、クリスチャンがこれら世界の兄弟姉妹らの苦しみを他人事として捉えてはいけない、聖書的理由があります。それは、兄弟姉妹の苦しみが、キリストの苦しみを具体化し世界に見せるため、また福音の前進のためであり、私たちキリストのからだである教会のためであることを、大変な拷問を受けたパウロのことばを通して、聖書は教えます。

ですから、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。そして、キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。キリストのからだとは、教会のことです。」―コロサイ1:24

ソマリア―2008年10月27日、2005年に救われイスラム教からキリストに従う者に変えられた、マンサー・モハメッド兄弟(25歳)が、イスラム教過激派によって、キリスト教に改宗した罪で首を切られる公開処刑にされた(Compass Direct News)。

エリトリア―2008年10月から今年1月まで、3人の軍事刑務所に入れられていたクリスチャンらが、拷問最中に死んでいっている(Compass Direct News)。エリトリアでは、現在約3000人のクリスチャンが軍事刑務所に入れられており、背教を迫るための拷問が日常的に行われている。

イラク―2008年11月12日、モスルにおいて、クリスチャンである2人の姉妹が、イスラム教過激派の集団に銃で撃たれ殺された(Persecution.com)。モスルではクリスチャンたちを地域から追い出そうという運動が続いている。

中国―今年2月4日、クリスチャン検事で中国のクリスチャンたちの声でもある高智晟氏が、政府によって誘拐され、以来50日以上行方が分からなくなっている。高兄弟は2007年にも同様に政府によって誘拐され、共産党拘置所において死に近い拷問を50日間受けたことがあり、今回の誘拐は氏を抹殺するための誘拐だったのではと、内部の者たちは心配しているということである。(ChinaAid.com)

アメリカ―今年3月8日、イリノイ州のメリービルにある第一バプテスト教会で、牧師が日曜礼拝の説教中、銃を持った男に接近され、至近距離で撃たれて死亡。(OneNewsNow.com)

これら兄弟姉妹を通して、キリストのからだである教会が更に強められ、キリストが栄光を受けられ、福音が更に前進していることを感謝。と同時に、現在迫害されている兄弟姉妹たちが、御霊によって強められ、主によって与えられた使命を全うすることができるよう、世界の兄弟姉妹たちと共に祈ります。

2009/03/23

タケオ州教会献堂式

共にクメール語を勉強した、私たちの友人でもある韓国人宣教師の、支援しているタケオ州にある教会が、一年以上かかってようやく教会建築が終わったということで、献堂式に参加してきました。広大な田んぼのど真ん中に建った教会です。土地購入と教会堂建築、合わせて38万ドル(日本円で約3,800万円)かかったということでした。土地購入の際の地主とのトラブルと建設会社とのトラブルに加え、カンボジアの不動産の急騰、韓国通貨の下落と世界経済不況に見舞われ、教会堂建築は不可能だと、途中何度もあきらめようとしたのですが、母国の兄弟姉妹らからあきらめないよう説得され、兄弟姉妹が国の不況にも関わらず忠実に献げてくださり、献堂式まで至ることができたのだと、涙ながらに証しをしてくださいました。韓国人の兄弟姉妹たちとの交わりと通して、金銭だけでなく、時間や祈りを「献げることの素晴らしさ」を、私たちはいつも教えられます。

受けるよりも与えるほうが幸いである」―使徒20:35

2009/03/13

死をも覚悟して

ワン・ニュース.comから拝借した、北朝鮮と韓国の国境の写真です。 現在およそ15,000人の亡命した北朝鮮人が、ソウルに在住しているそうですが、何と最近、その亡命した人の中で、救われ、「地下大学」なる学校で聖書の勉強をし、母国に福音を携えて戻る人がいるそうです(one news now.com、3月3日記事より)。一度国外に亡命した者が国に戻るということだけでも大変なことであるのに、キリストの福音を伝えるとなると、死は確実であるこの国で、主は素晴らしいみ業を成しておられます。私たちものんびりしてはおられない、そんな風に思わされるようなニュースです。主に益々栄光!

わたしがあなたがたをつかわすのは、羊をおおかみの中に送るようなものである。…彼らはあなたがたを衆議所に引き渡し、会堂でむち打つであろう。…彼らがあなたがたを引き渡したとき、何をどう言おうかと心配しないがよい。言うべきことは、その時に授けられるからである。語る者は、あなたがたではなく、あなたがたの中にあって語る父の霊である。…またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての人に憎まれるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」マタイ10:16‐22

イエスもまた、ご自分の血で民をきよめるために、門の外で苦難を受けられたのである。したがって、わたしたちも、彼のはずかしめを身に負い、営所の外に出て、みもとに行こうではないか。」へブル13:12,11