2009/03/29

マシュー、親知らずを抜く

木曜日にマシューが下の親知らずを二本抜きました。親知らずが歯肉を破って上に生えておらず、隣接の歯を押しながら横に生えており、アメリカでも、日本でも、歯科医から「早めに抜いたほうがいいよ」と言われていたのですが今日まで残してしまい、ドイツ人のいい歯科医がいると聞き、ようやく抜歯の決意をしたのでした。日本で抜歯をした時も驚かれたのですが、歯そのものが大きいのと、歯根が3つに分かれているため、抜歯に困難を極め、2時間にわたる大手術になりました。術後4日経った今日も、まだ頬の膨れが引いおらず、食べ物もほとんど喉を通りません。今日は礼拝の説教もままならず、兄弟姉妹たちの憐れみを請いながらの奉仕でした。でもマシューいわく、「迫害を受けて殉教していっている世界中の兄弟姉妹に比べたら、こんなの痛いなんて言ってられないよな~。」親知らずを全部抜いても痛みを一切感じず、術後の回復も極めて早かった私には分からない痛みですが、同情する振りだけはしています(笑)。

2009/03/28

世界の兄弟姉妹たちは今

『フォックスの殉教者たちの本("Foxe's Book of Martyers" Bker Book House出版)』は、初代教会から始まって1500年代に至るまで、兄弟姉妹たちがどのように殉教していったかを詳細に記録しており、息を飲みながら読まされますが、キリストにある信仰のゆえに殉教していく兄弟姉妹の数は、この21世紀においても、減るどころか増える一方です。黙示録6章9-11では殉教者数が神によってあらかじめ定められていることが暗示されており、驚かされます。

小羊が第五の封印を解いたとき、私は、神のことばと、自分たちが立てたあかしとのために殺された人々のたましいが祭壇の下にいるのを見た。彼らは大声で叫んで言った。『聖なる、真実な主よ。いつまでさばきを行なわず、地に住む者に私たちの血の復讐をなさらないのですか。』すると、彼らのひとりひとりに白い衣が与えられた。そして彼らは、『あなたがたと同じしもべ、また兄弟たちで、あなたがたと同じように殺されるはずの人々の数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいなさい』と言い渡された。」

最近また、キリストにある信仰のゆえ、迫害され殺されていった兄弟姉妹のニュースが何件かありましたので、そのいくつかをここでご紹介します。神によってあらかじめ定められ、殉教していった兄弟姉妹たちです。キリストにある信仰のゆえに殉教したりすることがない日本やカンボジアでは、他人事のように感じてしまいがちですが、クリスチャンがこれら世界の兄弟姉妹らの苦しみを他人事として捉えてはいけない、聖書的理由があります。それは、兄弟姉妹の苦しみが、キリストの苦しみを具体化し世界に見せるため、また福音の前進のためであり、私たちキリストのからだである教会のためであることを、大変な拷問を受けたパウロのことばを通して、聖書は教えます。

ですから、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。そして、キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。キリストのからだとは、教会のことです。」―コロサイ1:24

ソマリア―2008年10月27日、2005年に救われイスラム教からキリストに従う者に変えられた、マンサー・モハメッド兄弟(25歳)が、イスラム教過激派によって、キリスト教に改宗した罪で首を切られる公開処刑にされた(Compass Direct News)。

エリトリア―2008年10月から今年1月まで、3人の軍事刑務所に入れられていたクリスチャンらが、拷問最中に死んでいっている(Compass Direct News)。エリトリアでは、現在約3000人のクリスチャンが軍事刑務所に入れられており、背教を迫るための拷問が日常的に行われている。

イラク―2008年11月12日、モスルにおいて、クリスチャンである2人の姉妹が、イスラム教過激派の集団に銃で撃たれ殺された(Persecution.com)。モスルではクリスチャンたちを地域から追い出そうという運動が続いている。

中国―今年2月4日、クリスチャン検事で中国のクリスチャンたちの声でもある高智晟氏が、政府によって誘拐され、以来50日以上行方が分からなくなっている。高兄弟は2007年にも同様に政府によって誘拐され、共産党拘置所において死に近い拷問を50日間受けたことがあり、今回の誘拐は氏を抹殺するための誘拐だったのではと、内部の者たちは心配しているということである。(ChinaAid.com)

アメリカ―今年3月8日、イリノイ州のメリービルにある第一バプテスト教会で、牧師が日曜礼拝の説教中、銃を持った男に接近され、至近距離で撃たれて死亡。(OneNewsNow.com)

これら兄弟姉妹を通して、キリストのからだである教会が更に強められ、キリストが栄光を受けられ、福音が更に前進していることを感謝。と同時に、現在迫害されている兄弟姉妹たちが、御霊によって強められ、主によって与えられた使命を全うすることができるよう、世界の兄弟姉妹たちと共に祈ります。

2009/03/23

タケオ州教会献堂式

共にクメール語を勉強した、私たちの友人でもある韓国人宣教師の、支援しているタケオ州にある教会が、一年以上かかってようやく教会建築が終わったということで、献堂式に参加してきました。広大な田んぼのど真ん中に建った教会です。土地購入と教会堂建築、合わせて38万ドル(日本円で約3,800万円)かかったということでした。土地購入の際の地主とのトラブルと建設会社とのトラブルに加え、カンボジアの不動産の急騰、韓国通貨の下落と世界経済不況に見舞われ、教会堂建築は不可能だと、途中何度もあきらめようとしたのですが、母国の兄弟姉妹らからあきらめないよう説得され、兄弟姉妹が国の不況にも関わらず忠実に献げてくださり、献堂式まで至ることができたのだと、涙ながらに証しをしてくださいました。韓国人の兄弟姉妹たちとの交わりと通して、金銭だけでなく、時間や祈りを「献げることの素晴らしさ」を、私たちはいつも教えられます。

受けるよりも与えるほうが幸いである」―使徒20:35

2009/03/13

死をも覚悟して

ワン・ニュース.comから拝借した、北朝鮮と韓国の国境の写真です。 現在およそ15,000人の亡命した北朝鮮人が、ソウルに在住しているそうですが、何と最近、その亡命した人の中で、救われ、「地下大学」なる学校で聖書の勉強をし、母国に福音を携えて戻る人がいるそうです(one news now.com、3月3日記事より)。一度国外に亡命した者が国に戻るということだけでも大変なことであるのに、キリストの福音を伝えるとなると、死は確実であるこの国で、主は素晴らしいみ業を成しておられます。私たちものんびりしてはおられない、そんな風に思わされるようなニュースです。主に益々栄光!

わたしがあなたがたをつかわすのは、羊をおおかみの中に送るようなものである。…彼らはあなたがたを衆議所に引き渡し、会堂でむち打つであろう。…彼らがあなたがたを引き渡したとき、何をどう言おうかと心配しないがよい。言うべきことは、その時に授けられるからである。語る者は、あなたがたではなく、あなたがたの中にあって語る父の霊である。…またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての人に憎まれるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」マタイ10:16‐22

イエスもまた、ご自分の血で民をきよめるために、門の外で苦難を受けられたのである。したがって、わたしたちも、彼のはずかしめを身に負い、営所の外に出て、みもとに行こうではないか。」へブル13:12,11

2009/03/11

結婚6年目

10日は私たちの6年目の結婚記念日でした。主の憐れみで今日まで来ることができたことを心から感謝します。最近読んだ本、「キリストが死ぬために来られた50の理由("50 Reasons Why Christ Came to Die")」(著者ジョン・パイパー師)の、35章「キリストが苦しんで死なれたのは…結婚にその最も深い意味を持たせるため」の中で、結婚の、結婚を創造された神の、キリストを通して明らかにされた、その深い意図が書かれてあり、結婚する直前に色々教えられたはずなのですが、結婚6年目にして(!)、その深い意味を改めて(恥ずかしながら…)教えられつつあります。まだまだ聖書で言われるところの基準からは程遠いですが、主の助けを仰ぎつつ、マシューはキリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように妻を愛すること、私は教会が主に仕えるように、夫に仕えることを、教えられています。私たちの結婚を通して、主が意図されたその結婚の意味が、顕著にあらわされますように。

 夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。」―エペソ5:25

 聖書にある神の結婚に対する意図は、キリストがご自身の民を愛されたように、夫も妻を愛すること、そしてキリストの民が主に応答しなければならないように、妻も夫に応答すると表現されている。その描写はキリストをこの世に遣わされた時から、神のご計画の中にあった。キリストは主の花嫁のために来られ、結婚のあるべきかたちを見せるために、ご自分の花嫁のために死なれたのである。
 いや、その類似のポイントは、夫が妻らの手によって苦しまなければならないということではない。ある意味イエスに起こったということで、それは本当である。主は民―花嫁―をつくり上げるため、苦しまれた、そしてその民の中には、主の苦しみを起こした者たちもいる。そして主の悲しみのほとんどは、弟子たちが主を見捨てたためであった(マタイ26:56)。しかし類似のポイントは、イエスは彼らを死に至るまで愛され、彼らを退けられなかったことにある。
 神の結婚に対する意図は、アダムとエバの結婚の前に、キリストの来臨にあった。私たちはこれを知っている、なぜならキリストの使徒が結婚の奥義を説明したとき、聖書の最初まで戻って、創世記2:24を引用し、「それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。」と言い、その次の文章で、つい先ほど引用したものを解釈してこのように言うのである―「この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです」(エペソ5:31-32)と 。
 それは、神のご計画の中で結婚は、キリストの、ご自身の民との関係を見せることを最初から意図されていた、という意味である。結婚が「奥義」だと言われている理由は、結婚の目的が、キリストの来臨まではっきり啓示されていなかったからである。これで私たちは、結婚がご自身の民に対するキリストの愛を、この世でもっとはっきりさせるために造られたものだ、ということが分かる。
 これがはじめから神のご計画のうちにあったということは、死に立ち向かわれたとき、キリストのご計画のうちにもあった。主はご自身の苦難の多くの意図のうちに、結婚の深い意味を明白にすることがあったことを、知っておられた。主のすべての苦しみは、特に夫に対するメッセージが含まれていた―このようにすべての夫が妻を愛すべきである、と。
 神ははじめに、結婚がみじめなものになるとは意図されなかったが、ほとんどの結婚がみじめである。罪がそうさせるのだ。罪は私たちを互いに悪くあしらわせる。キリストはそれを変えるために苦しまれて死なれた。妻たちはこの変革に彼女たち自身の義務がある。しかしキリストは特別な任務を夫たちに与えられる。それゆえ聖書は言う、「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい」(エペソ5:25)と。 夫らはキリストではない。しかし彼らは主の似姿になるようにと召されている。そしてその似姿の特別な点は、脅迫や虐待なしに、妻の益のために苦しむ用意ができている、というものである。これは外からくる暴力から妻を守るため、苦闘することと同時に、妻からでさえも来る失望や虐待と苦闘することを含む。このような愛はキリストが、夫と妻のために死なれたゆえ、可能である。彼らの罪は赦された。罪のために二人のどちらかがどちらかを苦しませる必要はないのである。キリストがその苦しみを背負ってくださった。ゆえに、二人の赦された罪人として、私たちは悪を善に変えることができる。(pp.88-89, ブログ者訳)

2009/03/05

まことの慰め主

近所のタックチュー川の夕焼けです。宣教師仲間から今日、このカンボジアで7,8年宣教して、2年前に母国に帰国したアッセンブリー教団の元宣教師が、昨日自殺したという連絡がありました。子供が3人いる、私たちも良く知っている家族でした。長男の大学進学に合わせて母国に帰ったのですが、以来うつ病になっていたそうです。「なぜ?」という言葉にならない驚きが、教団宣教師たちの間を走っています。残された一家のことを思うと、心が痛みます。恵み深く、憐れみに富みたもう主のみ、私たちにまことの慰めを与えることのできるお方です。主のご栄光が、このことを通してご家族の上に現されますようにと、兄弟姉妹と共に祈ります。

2009/03/02

罪と人間の性質

聖書学校の授業の代行を頼まれ、今日から3日間、マシューが4年生のクラスを担当します。科目は「罪と人間の性質」。主の啓示が主が創造されたすべてのものと、みことばに現されているにも関わらず、その真理を拒否する人間の、完全に堕落した性質は、肉によっては理解することはまずありません。御霊が学生たちの目を開いてくださるよう、それによって、私たち被造物すべてに対する主の憐れみが益々顕著になり、学生たちが跪いて主を礼拝するよう、祈ります。

2009/03/01

主は近くにおられる

両親来訪の際に出席した、カンポット教会の礼拝の風景です。主要なメンバーが全員参加すると、私たち家族を入れて10人になりますが、全員揃うことはほとんどありません。礼拝に一人も来ないときも、たまにあります。礼拝を持つ自由のない、世界中に散在している兄弟姉妹のことを、良く思います。以前読んだジョン・パイパー師(ベツレヘム・バプテスト教会牧師)の、『キリストの受難―キリストが死ぬために来られた50の理由(the Passion of Christ:50 Reasons Why Christ Came to Die)』という本の中で、礼拝に関して、大変励まされるメッセージがありました。

ご自身をさして、イエスは言われた、「あなたがたに言いますが、ここに宮[神殿]より大きな者がいるのです。」(マタイ12:6)と。神殿はまれに、神の栄光が聖所を満たすとき、神の宿所となった。しかし聖書はキリストのことをこのように言う、「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。」(コロサイ2:9)神の臨在はイエスの上に宿ったり離れたりはしない。私たちが主にお会いするとき、神にお会いするのである。
 神は神殿で、様々な不完全な人間の仲介者を通して、人々と会われた。しかし今や、キリストのことについて、このように言われる、「神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです」(1テモテ2:5)と。もし私たちが礼拝で神とお会いするとしたら、私たちは行くのはただ一か所だけ、イエス・キリストである。キリスト教はイスラム教やユダヤ教のように地理的中心地はない。
 イエスが一度、姦淫を犯していた女性を問い詰められたとき、女性は主題を変えて言った、「私たちの先祖は、この山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。」イエスは横道にそれた彼女の後について、「…あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。」地理が問題ではない。それでは何か?イエスは続けられる、「真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。」(ヨハネ4:20-23)
 主はその領域全体を変えられる。この山においてではなく、その都市においてでもない、霊とまことによって、である。主は地理的限界を打破するために、この世に来られた。神殿は今やない。エルサレムは中心地ではない。キリストがおられる。私たちは神を拝したいだろうか?イエスは言われる、「わたしを見た者は、父を見たのです」(ヨハネ14:9)と。私たちは神を受け入れたいだろうか?イエスは言われる、「わたしを受け入れる者は、わたしを遣わした方を受け入れるのです」(マタイ10:40)と。私たちは礼拝の中で、神のご臨在に与りたいだろうか?聖書は言う、「御子を告白する者は、御父をも持っているのです」(1ヨハネ2:23)と。私たちはみ父を敬いたいだろうか?イエスは言われる、「子を敬わない者は、子を遣わした父をも敬いません」(ヨハネ5:23)と。キリストが死んでよみがえられたとき、古い神殿は、世界的に到達できるキリストにとって代わった。あなたは筋肉を動かさずに主のみものとに来ることができるのである。主は信仰と同じくらい近くにおられる。(ブログ者訳)

キリストが、礼拝を自由に持つことのできない世界中に散在している兄弟姉妹たちの間で、神に謁見する場所になっておられることを心から感謝。今日も、日の昇るところからその沈むところまで、世界中で霊とまことをもって礼拝する者たちの間で、主のみ名が崇められています。