日本語訳の説教、本

ジョン・パイパー師らの説教、本の抜粋などを日本語訳で紹介




『イエス・キリストのパッション(受難)-死ぬために来られた50の理由』 by ジョン・パイパー



<第1章> キリストが苦しまれ死なれたのは . . . 神のみ怒りを吸収するため 

キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。ーガラテヤ 3 : 1 3

神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。-ローマ 3 : 2 5

私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。-1 ヨハネ4 : 1 0

もし神が義であられなかったら、御子が苦しんで死ぬことを要求されなかったであろう。そしてもし神が愛であられなかったら、御子は苦しんで死ぬことをいとわずに喜んでされることはなかったであろう。しかし神はともに義であられ愛であられる。それゆえ主の愛はご自身の義の要求を満たそうとする。主の律法は、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申命記6:5)と要求する。しかし人類すべて、神より他のものを愛している。罪とはこれである―神以上に他のものを好み、その好みに従って行動することにより、私たちは神を侮辱する。ゆえに、聖書は、「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、」(ローマ3:23)という。私たちは自分に快楽をもたらすものをこよなく大切にする。そしてそれは神ではない。それゆえ罪は小さくない。なぜならそれは一国の主君に対して犯すものではないからだ。侮辱の深刻さは、侮辱された方の尊さに値する。天地万物の創造者は、尊敬と賞賛と忠誠を受けるに無限にふさわしいお方である。ゆえに、主を愛さないことは、ささいなことではない―それは反逆罪である。神を中傷し、人類の幸福を破壊する。

神は義であられるので、天地万物のこれらの犯罪を見過ごしにされない。主は犯罪者に対しその聖なるみ怒りを発せられるのである。彼らは罰せられるにふさわしく、それは、「罪から来る報酬は死です」(ローマ6:23)、「罪を犯した者は、その者が死ぬ」(エゼキエル18:4)というみことばからも明白である。

すべての罪が、聖なる呪いによって呪われている―不義をさばかず、神の価値を下げ、偽りで事実
支配する…それゆえ、神は言われる、「律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。」(ガラテヤ3:10、申命記27:26)と。

しかし主の愛は、罪深い人類の上にのしかかっている呪いにとどまらない。主は聖いお方であられるが、み怒りを現わすことをお喜びにならない。神は、そのみ怒りを出し切ってしまうため、神に信頼するすべての者の呪いを背負うため、ご自身の御子をお送りになった。「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。」(ガラテヤ3:13)これが、前述の引用句(ローマ3:25)にある「なだめの供え物」ということばの意味である。身代わりによって、神のみ怒りを取り除くということを、表わす。身代わりは神ご自身が備えられる。身代わりのイエス・キリストは、み怒りを取り消すだけでなく、吸収され、そして私たちに向けられていたみ怒りをご自身へとそらされるのである。神のみ怒りは義であり、撤回されることなく注ぎ出し尽された。

神を軽くあしらったり、そのご愛を軽くあしらうのはやめよう。私たちの罪の深刻さと、私たちに対する主のみ怒りが正しいということを理解しない限り、神に愛されることの尊さの事実に畏れと驚きを抱くことはない。恵みによって、自分の価値のなさに気づかされる時、キリストの苦しみと死をみて、「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、[神のみ怒りを吸収するための]なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです」(1ヨハネ4:10)と言うようになるであろう。





<第2章> キリストが苦しまれ死なれたのは…天の父をお喜ばせするため


しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。-イザヤ53:10

キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。-エペソ5:3


イエスは天でお怒りになったみ父と奮闘し、み父のみ手から鞭を奪われたのではない。み父が人類に対し情け深くあられるよう、強いられたわけでもない。主の死は、神が罪人に対し寛大になられるため、しぶしぶ同意して起こったものではない。イエスが苦しまれ死なれたとき、道地のみ旨を成された。この息をのむような戦略は、この世の歴史が計画され、創造される以前に考え出された。それゆえ聖書は、神の「計画と恵みとによるのです。この恵みは、キリスト・イエスにおいて、私たちに永遠の昔に与えられたものであって、」(2テモテ1:9)と言うのである。

ユダヤ教の聖典では、この計画は既に展開していた。預言者イザヤは罪人の身代わりとなるメシヤ(救世主)の苦難を(キリストの来臨前に)予告した。キリストが私たちの代わりに、「神に打たれ」ると言うのだ。

まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。・・・彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。(イザヤ53:4-6)

しかし驚くのは、罪人のためのキリストのこの身代わりが、神のお考えだったということである。キリストは罪人を処罰するという神のご計画にちょっかいを出されなかった。神は御子がそこにいるようにご計画になったのである。旧約聖書の預言者の一人がこのように言う、「しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。」(イザヤ53:10)と。

これで新約聖書の矛盾に見えるものが理解できる。一方で、キリストの苦難は罪による神のみ怒りのほとばしりであり、他方で、キリストの苦難はみ父のみ胸に従われる主の、美しい行為である。十字架上から「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」(マタイ27:46)と叫ばれたのに、聖書はキリストの苦しみは、神のかぐわしさであると言う。「キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。」(エペソ5:2)

ああ、その恐ろしく素晴らしい神の愛を私たちが礼拝することができたなら!それは感傷的なものではない。単純でもない。私たちのために、神は不可能を成して下さったのである-そのみ怒りを、ご自身の御子、従順であられたがゆえに礼拝を受けるに無限にふさわしいとされた御子の上に、注がれたのである。御子が礼拝をお受けになることは、神のみ前に尊い。み怒りを背負われた方は、無限に愛されているお方である。

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<第3章> キリストが苦しまれ死なれたのは…従順を学び完全にされるため


キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、-ヘブル5:8

神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創造者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。
-ヘブル2:10


キリストは苦しみを通して「従順を学び」、そして苦しみを通して「全うされた」という聖書の同じ書簡で、「罪を犯されなかった」と言われている。「[キリストは]罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みにあわれたのです。」(ヘブル4:15)

これが聖書の一貫した教えである。キリストは罪を犯されなかった。神の御子ではあられたが、私たちが受ける誘惑と食欲と肉体の弱さを持ち合わせた、まことの人間であられた。飢えを覚えられ(マタイ17:12)、怒りと悲しみを覚えられ(マルコ3:5)、また痛みを覚えられた(マタイ17:12)。しかし主の心は完全に神の愛のうちにあり、その愛の通りに行動された。「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。」(1ペテロ2:22)

それゆえ、聖書がイエスは「苦しみを通して従順を学ばれた」というとき、主は不従順であることをやめた、という意味ではない。新しい試練に直面するたび、従うということが何かを、実際に、そして痛みながら学ばれた、という意味である。主は「苦しみを通して全うされた」と言うとき、主は徐々に欠点を克服していった、という意味ではない。私たちを救うため持ち合わせていなければならない完璧な義を、徐々に実現していかれた、という意味である。

主が罪人であるので、洗礼を受ける必要があったのではない。むしろ、バプテスマのヨハネに主はこのようにご説明になった、「このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」(マタイ3:15)と。

要するに、もし神の御子が、その義と愛において試される、誘惑と痛みの人生なしに、肉体をとってこの世に来られ十字架までいかれたなら、堕落した人間にとって主はふさわしい救い主ではない、ということである。主の苦しみは神のみ怒りを吸収しただけではなかった。それは主のまことの人となりを完成し、私たちを兄弟姉妹と呼ぶことができるようにしたのである。

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<第4章> キリストが苦しまれ死なれたのは…死からの復活を達成するため


永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを死者の中から導き出された平和の神が、イエス・キリストにより、御前でみこころにかなうことを私たちのうちに行ない、あなたがたがみこころを行うことができるために、すべての良いことについて、あなたがたを完全な者としてくださいますように。どうか、キリストに栄光が世々限りなくありますように。アーメン。
-ヘブル132021

キリストの死は、ただ単にその復活に先行したものではない―それは復活を得るための代価であった。それゆえヘブル1320は、神は「永遠の契約の血により」、主を死者の中から導き出された、という。
 ご自身が「わたしの契約の血です。」(マタイ2628)と言われるように、「契約の血」はイエスの血潮である。聖書がイエスの血を言うとき、主の死を意味する。ただ単なるイエスの出血によって救いが達成されるのではない。主の死に至る出血が、ご自身の血を流す行為を重要なものとするのである。
 では、イエスの血を流すこととその復活の関係は何か?聖書は、主は血を流した後によみがえられただけでなく、血を流すことによってよみがえられた、と言う。これは、キリストの死が達成したものがまったく完全、完璧であり、復活がその報酬、またその死によってキリストの達成されたものの正当性を主張するもの、という意味である。
 神のみ怒りはイエスの苦しみと死によって静められた。罪に対する呪いは完全に吸い上げられたのである。キリストの従順は不足なく完成された。赦しの代価はすべて支払われた。神の義は十分に立証された。最後に達成するために残されたのは、神の承認の公式宣言である。イエスを死からよみがえらされることによって、主はそれを成された。
 聖書が「もしキリストがよみがえられなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。」(1コリント1517)と言うとき、要点は、復活が私たちの罪のために支払われた代価であるというものではない。要点は、復活はイエスの死が十分な代価であったことを証明する、というものである。もしイエスが死からよみがえられなかったなら、主の死は失敗であり、神も、主の罪を背負うという任務を承認されなかったのであり、私たちはいまだ罪の中にいることになる。
 しかし事実、「キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられた」(ローマ64)。主の苦しみと死は承認された。そしてもしキリストに信頼するなら、私たちはもはや罪の中にはいない。なぜなら「永遠の契約の血によって」、大牧者はよみがえられ、永遠に生きておられるのである。

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<第5章> 罪人に対する神の愛と恵みの富んでいることを現すため


正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。-ローマ5:7-8


神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。-ヨハネ3:16

私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。-エペソ1:7


私たちに対する神の愛の度合いは、二つのものに現されている。一つは罪の報酬から私たちを救うための、主の犠牲の度合いで、もう一つは主が私たちを救って下さったときの、私たちの価値のなさの度合いである。

 主の犠牲の度合いはみことば、「神は、そのひとり子をお与えになったほどに」(ヨハネ3:16)に見ることができる。キリストということば自体にもその度合いを見る。この名前は、ギリシャ語の称号Christos、あるいは「油注がれたもの」、または「メシヤ」に基づいている。これはとても威厳のある称号である。メシヤはイスラエルの王となるべき方であった。ローマを征服し、イスラエルに平和と安全をもたらすはずのお方だった。ゆえに神が罪人の救いのために遣わされた方は、神の御子、おひとり子で、イスラエルの油注がれた王―実に世界の王であった(イザヤ9:6-7)。

 この考察に、キリストが忍ばれた十字架刑による恐ろしい死を加えるとき、み父と御子が支払われた犠牲は、言葉では言い表せないほど大変なものであったことが、はっきりしてくる―特に、神と人との間の距離をよく考えて見ると、払われた犠牲の大きさははますます計り知れない。しかし神は私たちを救うため、それをお選びになった。

 私たちの価値のなさを思うとき、私たちに対する主の愛の度合いは、いや増すばかりである。「正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださった」(ローマ5:7,8)。私たちは、神の犠牲ではなく、神のさばきを受けるに値したものたちである。

 「神はカエルのために死なれなかった。だから主は私たちの人間としての価値に応答されたのだ。」というのを聞いたことがある。これは恵みを本来の意味と取り違えている。私たちはカエルより悪いのだ。彼らは罪を犯したことがない。神に逆らったり、神があたかも人生で無関係なもののように、軽視したことがない。神はカエルのために死なれる必要はなかったのである。彼らはまったく悪くない、私たちの方がまったく悪いのだ。私たちの負債は、神の犠牲でしか支払えないほど、非常に大きいものなのである。

 私たちのための神の犠牲の説明は、ただ一つでしかつかない。私たちではない、「神の豊かな恵み」(エペソ1:7)のゆえ、である。すべて無償なのだ。私たちの価値に対する応答ではない、主の無限の価値のあふれ出るゆえ、である。そして、私たちを永遠に、最高に幸せにするため、多大な犠牲をもって、価値のない罪人を魅了しようとするパッション(情熱)こそ、神の愛である。それが主の無限の美しさである。

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