
私たちの罪のため十字架にかけられ、死にて葬られ、3日目によみがえられた主イエス・キリストのみ名を崇めます。イースターとは言うものの、なぜキリストが苦しんで死なれたのか、その理由を深く掘り下げて学ぶことは、私たちはあまりありません。度々ご紹介しています、ジョン・パイパー師の「イエス・キリストの受難(the Passion of Jesus Christ)」の第一章で、師はキリストの受難の第一の、そして最も重要な理由は、「神のみ怒りを吸収するため」であると、みことばを通して説明しています。読むと、改めてキリストが成してくださったみ業をほめたたえずにはいられません。このイースターの日、キリストが受けるべき栄光を受けられますように!
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キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。(ガラテヤ 3 : 1 3)
神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。(ローマ 3 : 2 5)
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(1 ヨハネ4 : 1 0)
(引用)もし神が義であられなかったら、御子が苦しんで死ぬことを要求されなかったであろう。そしてもし神が愛であられなかったら、御子は苦しんで死ぬことをいとわずに喜んでされることはなかったであろう。しかし神はともに義であられ愛であられる。それゆえ主の愛はご自身の義の要求を満たそうと意図される。主の律法は、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申命記6:5)と要求する。しかし私たちすべてのものは、神より他のものを愛している。
罪とはこれである―神以上に他のものを好み、それらの好みに従って行動することにより、私たちは神を侮辱する。ゆえに、聖書は、「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、」(ローマ3:23)という。私たちはもっとも楽しいことを称賛する。そしてそれは神ではないのである。
それゆえ罪は小さくない。なぜならそれは小さい主君者に対して犯すものではないからだ。侮辱の深刻さは、侮辱された方の尊さに値する。天地万物の創造者は、尊敬と賞賛と忠誠を受けるに無限にふさわしいお方である。ゆえに、主を愛さないことは、ささいなことではない―それは反逆罪である。神を中傷し、人類の幸福を破壊する。
神は義であられるので、天地万物のこれらの犯罪を伏せられない。主は彼らに対し聖なるみ怒りを発せられるのである。彼らは罰せられるにふさわしく、主はこのことを明確にされている、「罪から来る報酬は死です」(ローマ6:23)、「罪を犯した者は、その者が死ぬ」(エゼキエル18:4)と。
聖なる呪いがすべての罪の上にかかっている―この世が不義であることをさばかない、神の価値を下げることが支持される、偽りが事実の中心を支配する…それゆえ、神は言われる、「律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。」(ガラテヤ3:10、申命記27:26)と。
しかし主の愛は、罪深い人類の上にのしかかっている呪いに安息しない。主はたとえどんなに聖いお方であられても、み怒りを現わすことを喜ばれない。であるから神は、そのみ怒りを吸収させるため、神に信頼するすべての者の呪いを背負うため、ご自身の御子をお送りになったのである。「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。」(ガラテヤ3:13)これが、前述の引用句(ローマ3:25)にある「なだめの供え物」ということばの意味である。身代わりを与えることによって、神のみ怒りを取り除くということを、表わす。身代わりは神ご自身が備えられる。身代わりのイエス・キリストは、み怒りを取り消すだけでなく、吸収され、そして私たちに向けられていたみ怒りをご自身へとそらされるのである。神のみ怒りは義であり、撤回されることなく出し尽された。
神を軽くあしらったり、そのご愛を価値のないものにするのはやめよう。私たちの罪の深刻さと、私たちに対する主のみ怒りの義を考慮しない限り、神に愛されることを畏れをもって驚くことはない。しかし、恵みにより、私たちの価値のなさに気づかされる時、キリストの苦しみと死をみて、「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、[神のみ怒りを吸収するための]なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです」(1ヨハネ4:10)と言うであろう。(20-21ページより、ブログ者訳)