教会員のバナナ畑のおよそ200本あるバナナの木が、先日の嵐ですべて倒れてしまいました。バナナを売って生活をしていた家族ですが、食べるものも一切ないほど苦境に陥っているらしいという話を人伝いに聞き、先週教会員揃って、貯めてきた献金で50㎏の米を買って家族に持って行きました。その後どうしているだろうかと昨日一家を訪問したのですが、ご夫婦涙を流しながら、素晴らしい証しを聞かせてくださいました―「嵐の翌日、同じバナナ畑を持っている近所の人から、畑のバナナの木が全て台無しになったと聞き、急いで自分のバナナ畑に出かけたら、案の定、木がすべて倒れていました。でもその凄まじい状態を見ても心が騒がず、むしろ主に感謝したのです。私たちは罪人で、主の憐れみを受けるにふさわしくない者。主が恵んで下さったらそれは感謝。恵んで下さらなくても、それは当然と教会で学んでいますので、平安でいることができました。数日後、畑から主を賛美しながら帰ってきたら、米の入った袋が家の軒下においてあったのです。他の教会員に尋ねたら、『主からの恵みでしょう』と言われ、主の御名を心から賛美しました。まことに主は憐れみ深く、その恵みはとこしえに絶えることがありません。」
私たちはとかく、創造主は私たちに恵みを賜るお方で、災いをお与えになる方ではない、災いは悪しき霊から来る、と思いがちですが、聖書は実は、わざわいも幸いも、共に主から来ることを教えます。
哀歌3:38「わざわいも幸いも、いと高き方の御口から出るのではないか。」
イザヤ45:7「わたしは光を造り出し、やみを創造し、平和をつくり、わざわいを創造する。わたしは主、これらすべてを造る者。」
アモス3:6「町でラッパが鳴ったら、民は驚かないだろうか。主がなされるのでなければ、町に災いが起こるだろうか。」(口語)
ヨブ記のヨブの通された苦難は、このみことばを証しします。でも同時にその中で、主は私たちが苦しみのときに主に呼び求めるよう教えてくださり、私たちが呼び求めるとき、憐れみをあらわして下さいます。
「彼が、わたしを呼び求めれば、わたしは、彼に答えよう。わたしは苦しみのときに彼とともにいて、彼を救い彼に誉れを与えよう。わたしは彼を長いいのちで満ち足らせ、わたしの救いを彼に見せよう。」詩篇91:15、16
「苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。」詩篇50:15
苦しみの時にも共にいて、私たちに主を求めさせて下さる主に心から感謝します。一家を通してさらに主のみ名が崇められますように。