
私自身、自分の内にある差別意識に初めて気づかされたのは、フィリピンで生活をし始めた11年前のことです。「日本人の方がはるかに優れている」と、無意識のうちに絶えず思っていました。結婚当初も夫婦間の諍いのほとんどは、この私の意識が原因で起こったものでした。何度か主にその罪を示され、へりくだららされる体験をしたにも関わらず、未だにこの意識と葛藤するあたり、この罪の根深さを思い知らされています。多くの宣教師らの交わりの中でも、「私の国はカンボジアより優れている」という意識が、会話の中で溢れています。私たち現地で働く宣教師らにとっては特に、偏見、差別意識は日常生活の上での霊的戦いです。
ジョン・パイパー師(ベツレヘム・バプテスト教会)の本、「イエス・キリストのパッション―死ぬために来られた50の理由("The Passion of Jesus Christ-50 Reasons Why He Came to Die")」の44、45章で、師は人種間の敵対心について以下のように教えます。
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「キリストこそ…二つのものを一つにし、隔ての壁を打ち壊し、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。」(エペソ2:14‐16)
「新約聖書時代におけるユダヤ人と異邦人(非ユダヤ人)間の疑い、偏見、そして相手を傷つける態度は、今日における人種、民族、そして国家間の対立と同じくらい深刻であった。…イエスは、人種間の和解に至るまったく新しい道を切り開くため、死なれた。儀式や人種は交わりの基盤ではない。キリストがその基盤である。主は律法を完全にまっとうされた。人々を分け隔てていた律法のすべてが、主にあって廃止されたのである。―一つを除いて―その一つとは、イエス・キリストの福音である。…イエス・キリストは神の御子であられる。神が主を、罪人を救い、人種を永遠に和解させるためのお方、また唯一の手段として、この世にお遣わしになった。もし私たちがこれを否定するなら、永遠の希望と、人々の間の永続する一致の、その土台を崩すのである。人類がこの事実を知り、楽しみ味わうことによってのみ、互いに愛し受け入れ合うことが可能になる。
…イエス・キリストはある一部族の神ではない。主は一つの文化や一つの民族に属されない。主は『世の罪を取り除く神の小羊』(ヨハネ1:29)であられる。「ユダヤ人とギリシャ人[あるいは他のどのグループ]との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。『主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる』のです」(ローマ10:12‐13)。」(ブログ者訳)