アクセス・エイカース:キリストがこの身によって崇められることを願う私たちの日常生活、またはいい説教、あるいは世界のクリスチャンニュース等を紹介…「わたしが切実な思いで待ち望むことは、…生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストがあがめられることである。」―ピリピ1:20
2009/05/20
コッコン州(その2)
2009/05/19
わたしは…わたしの教会を建てる―キリスト
カンポットから西へ約300㎞走ると到達する、コッコン州に出かけたのですが、タイ国境すぐ近くの、街から20㎞ほど離れた「僻地」と言う言葉がぴったりの村で、なんと3人の娘がいるクリスチャン夫婦に出会いました。ご夫婦ともプノンペンで仕事をしていたそうですが、隣に引っ越してきた中華系クメール人のクリスチャン一家からキリストの話を始めて聞き、お嬢さん二人がそのクリスチャン一家に連れられて教会に行き始めます。ある日奥さんの方が、子どもたちに誘われて教会に出かけ、救われ、ご主人も最終的に教会に行くようになり、2005年にバプテスト教会で洗礼を受けました。
クリスチャンになってからの生活はバラ色だったわけではなく、その後も貧しい生活が続き、頼りにした人たちからは片っ端から裏切られ、ご主人は日曜日も仕事の休みが取れず礼拝に出なくなり、全てがうまくいかなくなったとき、聖書のアブラハムの話から、主を第一とすること、人は裏切るが、主は決して見捨てられることがない、主に頼る時に、主が導いてくださりその必要の全てをお与えくださることを教えられ、日曜でも家族一緒に礼拝に行くことができるような、ファミリー・ビジネスをできる場所を求め、プノンペンを離れます。そしてたどり着いたのがこのコッコンの国境沿い。一文無しでやってきたのですが、ビーチ沿いに小さな食堂を立てることができ、しかもバプテスト教会が隣村に建ち、そこで日曜日は一家揃って礼拝しているそうです。「人に信頼して生きていた時は、お金にいつも困っていた。でも主に信頼することを学び始めて以来、主が必要の全てをお与え下さっている。今は足りないものは何一つないんです。日曜日には礼拝に一家そろって行くことができ、週の半ばは食堂に足を運んでくる人々にキリストを証しできる。主は本当に素晴らしい!」と、街の食堂と比べると決して上等とは言えないような小さな食堂で、一家そろって喜びに溢れんばかりに証しして下さいました。
「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。」(マタイ16:18)と主が言われるように、主がこのような地でもご自身の教会を建てておられるのだと、ご夫婦の証しを聞きながら、主のみ名を心から賛美しました。とても励まされた3時間でした。
2009/05/14
収穫の主
古から人々はありとあらゆる神に豊作を祈ってきていますが、私たちクリスチャンは、豊作も不作も、収穫はすべて創造主なる神のみ手のうちにあると知っているので、この世の風習に束縛されることなく、安息のうちに農業に携わることができます。伝道も同じです。何と素晴らしい安息でしょう!
「収穫は多いが、働き人が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」(マタイ9:37,38)
2009/05/10
母の日
母の日です。カンボジアには母の日がないので、ついつい忘れがちなこの日ですが、ディザイアリング・ゴッド(DesiringGod.org)のブログを読んで、日頃母に払うべき敬意を払ってきていない自分に気づかされ、悔い改めさせられました。「世代が違うから」ではなく、「聖書がそう教えるから」、敬わなければならない、母の生きている間に、親孝行をさせて下さいと、改めて祈らされた母の日でした。以下、「あなたの母親の教えを捨ててるな(Do Not Forsake Your Mother's Teaching)」から抜粋した訳です。私を生んで育ててくれた母に、改めて心から感謝。--------------
箴言は、「ダビデの子、イスラエルの王、ソロモンの箴言」で始まる。ソロモンは偉大な王で、偉大な王の息子であった。それは彼が有名で、影響力があり、すべての分野において最高位であったことを意味する。人々は彼の前でひれ伏した。彼が言うことを行った。彼には計り知れない権威と名声があった。
その彼が、この高い地位で、どのように母親を扱ったのだろうか?あなたは彼の母がバテシェバであったことを思い出すだろう。彼女は父ダビデと、醜い状況―神にとって非常に不快な状況、の下で結婚した。しかし彼女はソロモンの母親であり、1列王記2:19は以下のように言う。「バテシバはアドニヤのため、王のもとへ行った。王は立って迎え、彼女を拝して王座に着き、王母のために座を設けさせたので、彼女は王の右に座した。」それから彼らは会話をした。
彼は彼女のために立ち上がり、彼女を拝した。母と会話をするため、彼の側に座を設けさせた。彼女は彼の母であった。王でさえ、母が広間に入って来る時には、身をかがめなければならなかったのである。…ソロモンは箴言の一章でこのように書いている、
「わが子よ、あなたは父の教訓を聞き、母の教を捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい冠となり、あなたの首の飾りとなるからである。」(箴言1:8-9)
「年老いた母を軽んじてはならない。」(箴言23:22)
「あなたの父母を楽しませ、あなたを産んだ母を喜ばせよ。」(23:25)
あなたの母親の教えを軽んじてはならない。それらはあなたの頭の麗しい冠、母の頭の喜びの冠となる。
2009/05/07
2009/05/04
2009/04/24
キリストの名が新聞記事に
今日の新聞(プノンペン・ポスト)の記事に、「キリスト」の名が掲載されました。ドーイッ被告の裁判が、いよいよ強制収容所S-21の話に移り、クメール・ルージュの実態が徐々に明らかになるかという時、被告が自首に至った理由が、「キリストによるもの」であることを、公の裁判の場で言述したと言うのです(プノンペン・ポスト、4月24日記事)!!クメール・ルージュの一幹部であったフン・セン首相が、裁判にかけられないといけないのではないかという外国メディアの報道を嘲笑し払いのけたそうですが、このカンボジアでは自分の罪を告白する習慣がありません。そういう中、各新聞が、「カンボジア人たちはなぜドーイッ被告が自分の罪を素直に認めているのか理解に苦しんでいる」と報じたのですが、それが「キリストのゆえ」であるとドーイッ被告自身が本日言述、まさに「主に栄光!!!」です。この裁判の模様はラジオで生中継されており、多くのカンボジア人が家庭で、職場でこの中継に真剣に耳を傾けているのですが、今日、キリストの名が、カンボジア全土に響き渡りました。主に栄光!!!
2009/04/20
猛暑
2009/04/19
キリストに従うこと
デザイアリング・ゴッド(DesiringGod.org)のブログで見つけたトラクトです。「繁栄の神学を矯正するトラクト」とタイトルが付けられていました。挿絵の下に、「神はあなたを愛しておられ、あなたの人生のため素晴らしいご計画がおありになる」と説明がされてありますが、絵自体は、ローマ帝国時代に頻繁に行われたクリスチャンの処刑です。つまり、神の私たちクリスチャンに対するご計画は、私たちがこの世の安心や快楽を持つこと、楽な生活を送ることではなく、神だけがお与えになることができる、永遠に続く安心と喜び、楽しみ、つまり、神ご自身であること、そのために神は私たちが依存するこの世のすべてのもの(時には私たちのこの肉体でさえも)を取り除かれる、という意味です。デートリッヒ・ボンヘッファーの本、「キリストに従うこと(the Cost of Discipleship)」を思わせるような絵です。
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。」―マルコ8:34-36
2009/04/12
なぜキリストは苦しんで死なれたのか?
私たちの罪のため十字架にかけられ、死にて葬られ、3日目によみがえられた主イエス・キリストのみ名を崇めます。イースターとは言うものの、なぜキリストが苦しんで死なれたのか、その理由を深く掘り下げて学ぶことは、私たちはあまりありません。度々ご紹介しています、ジョン・パイパー師の「イエス・キリストの受難(the Passion of Jesus Christ)」の第一章で、師はキリストの受難の第一の、そして最も重要な理由は、「神のみ怒りを吸収するため」であると、みことばを通して説明しています。読むと、改めてキリストが成してくださったみ業をほめたたえずにはいられません。このイースターの日、キリストが受けるべき栄光を受けられますように!------------
キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。(ガラテヤ 3 : 1 3)
神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。(ローマ 3 : 2 5)
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(1 ヨハネ4 : 1 0)
(引用)もし神が義であられなかったら、御子が苦しんで死ぬことを要求されなかったであろう。そしてもし神が愛であられなかったら、御子は苦しんで死ぬことをいとわずに喜んでされることはなかったであろう。しかし神はともに義であられ愛であられる。それゆえ主の愛はご自身の義の要求を満たそうと意図される。主の律法は、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申命記6:5)と要求する。しかし私たちすべてのものは、神より他のものを愛している。罪とはこれである―神以上に他のものを好み、それらの好みに従って行動することにより、私たちは神を侮辱する。ゆえに、聖書は、「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、」(ローマ3:23)という。私たちはもっとも楽しいことを称賛する。そしてそれは神ではないのである。
それゆえ罪は小さくない。なぜならそれは小さい主君者に対して犯すものではないからだ。侮辱の深刻さは、侮辱された方の尊さに値する。天地万物の創造者は、尊敬と賞賛と忠誠を受けるに無限にふさわしいお方である。ゆえに、主を愛さないことは、ささいなことではない―それは反逆罪である。神を中傷し、人類の幸福を破壊する。
神は義であられるので、天地万物のこれらの犯罪を伏せられない。主は彼らに対し聖なるみ怒りを発せられるのである。彼らは罰せられるにふさわしく、主はこのことを明確にされている、「罪から来る報酬は死です」(ローマ6:23)、「罪を犯した者は、その者が死ぬ」(エゼキエル18:4)と。
聖なる呪いがすべての罪の上にかかっている―この世が不義であることをさばかない、神の価値を下げることが支持される、偽りが事実の中心を支配する…それゆえ、神は言われる、「律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。」(ガラテヤ3:10、申命記27:26)と。
しかし主の愛は、罪深い人類の上にのしかかっている呪いに安息しない。主はたとえどんなに聖いお方であられても、み怒りを現わすことを喜ばれない。であるから神は、そのみ怒りを吸収させるため、神に信頼するすべての者の呪いを背負うため、ご自身の御子をお送りになったのである。「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。」(ガラテヤ3:13)これが、前述の引用句(ローマ3:25)にある「なだめの供え物」ということばの意味である。身代わりを与えることによって、神のみ怒りを取り除くということを、表わす。身代わりは神ご自身が備えられる。身代わりのイエス・キリストは、み怒りを取り消すだけでなく、吸収され、そして私たちに向けられていたみ怒りをご自身へとそらされるのである。神のみ怒りは義であり、撤回されることなく出し尽された。
神を軽くあしらったり、そのご愛を価値のないものにするのはやめよう。私たちの罪の深刻さと、私たちに対する主のみ怒りの義を考慮しない限り、神に愛されることを畏れをもって驚くことはない。しかし、恵みにより、私たちの価値のなさに気づかされる時、キリストの苦しみと死をみて、「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、[神のみ怒りを吸収するための]なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです」(1ヨハネ4:10)と言うであろう。(20-21ページより、ブログ者訳)
2009/04/08
クメール正月と停電
クメール正月がやって参りました。実際の正月は14-16日なのですが、学校も商業も、すでに今週から休暇に入り、カンポット、カエップ州とも帰省客で賑わっています。この休暇ですが、約2週間続きます。カンポット州は都会からの帰省で、突然の人口増加に電力が間に合わないためか、毎年正月の期間はひどい停電が起こります。私たちの住んでいるチョムクリール村では昨日は16時間停電が続き、この猛暑で冷蔵庫のものがすべてダメになってしまうだろうと思っていたのですが、電気が戻ってから冷蔵庫を開けたらまだ冷たい!小さなことでも憐れんでくださる主に、心から感謝しました。
主人の再臨に備えて
写真はプノンペン・ポストから拝借した、タイとの国境で警備をするカンボジア人兵士です。プレヴィヒア州における タイ国境沿いでの兵士同士のにらみ合いが始まって9か月に入りますが、先週3日タイ軍のちょっとしたミスが銃撃戦に至り、タイ側3人の死者を出す事件が起こりました。ベトナムに家族がいる私たちの友人は、カンボジアとタイの間で戦争が起こったら、いつでもカンボジアを支援できるよう、二人の弟が軍に招へいされたと話してくれました。また先週タイ外相が発言したカンボジア首相に関するコメントが首相の気に障ったとか何とかで、両国間の関係の溝を益々深めており、地元のニュースでは両国間で戦争が間もなく始まるのではないか、と人々の恐怖をあおっています。でもクリスチャンにとっては今のこの時は、恐怖に縛られるときではありません。キリストはこの世の終わりに関して次のように言われます、「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、…しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。…これらのことすべてを見たら、あなたがたは人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。」(マタイ24:7、8、33)と。クリスチャンにとってこの世の終わりを思わせるこの不安定な時代は、主人(キリスト)の再臨に備えるときであります。
「主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食事をきちんと与えるような忠実な思慮深いしもべとは、いったいだれでしょうか。主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。まことに、あなたがたに告げます。その主人は彼に自分の全財産を任せるようになります。」(マタイ24:45-47)
2009/04/01
「私は犯したすべての殺人を悔いる」―ドーイッ被告
引き続き行われているクメール・ルージュ裁判ですが、昨日行われた裁判の席で、被告人ドーイッ被告が、「私はポル・ポト政権下で犯したすべての殺人を悔いる」と告白したと、新聞(カンボジア・デイリー)のトップに掲載されていました。「現在、世間一般の人々は私を臆病もの、あるいは人でなしだと、みなしている。私はそれらを正直に、尊重して受け入れたい」と、与えられた約30分間、告白したそうです。主がドーイッ兄に力とことばを与えて下さり、行った罪の告白を、はっきりできるように、それによってキリストの光が放たれるようにと祈って来た私たちですが、兄の裁判の被告席での告白を聞いて、主のみ名を崇めました。国連が、飛び交っている賄賂等の腐敗を止めようとしても埒が明かないような(プノンペン・ポスト参照)、またドーイッ被告以外の被告全員がポル・ポト時代に行った一切の犯罪を否定しているこの裁判で、ドーイッ被告の率直な告白が、人々を驚かせ、戸惑わせています。キリストが、ドーイッ兄の告白を通して益々栄光をお受けになるよう、引き続き祈っています。
2009/03/29
マシュー、親知らずを抜く
木曜日にマシューが下の親知らずを二本抜きました。親知らずが歯肉を破って上に生えておらず、隣接の歯を押しながら横に生えており、アメリカでも、日本でも、歯科医から「早めに抜いたほうがいいよ」と言われていたのですが今日まで残してしまい、ドイツ人のいい歯科医がいると聞き、ようやく抜歯の決意をしたのでした。日本で抜歯をした時も驚かれたのですが、歯そのものが大きいのと、歯根が3つに分かれているため、抜歯に困難を極め、2時間にわたる大手術になりました。術後4日経った今日も、まだ頬の膨れが引いおらず、食べ物もほとんど喉を通りません。今日は礼拝の説教もままならず、兄弟姉妹たちの憐れみを請いながらの奉仕でした。でもマシューいわく、「迫害を受けて殉教していっている世界中の兄弟姉妹に比べたら、こんなの痛いなんて言ってられないよな~。」親知らずを全部抜いても痛みを一切感じず、術後の回復も極めて早かった私には分からない痛みですが、同情する振りだけはしています(笑)。
2009/03/28
世界の兄弟姉妹たちは今
『フォックスの殉教者たちの本("Foxe's Book of Martyers" Bker Book House出版)』は、初代教会から始まって1500年代に至るまで、兄弟姉妹たちがどのように殉教していったかを詳細に記録しており、息を飲みながら読まされますが、キリストにある信仰のゆえに殉教していく兄弟姉妹の数は、この21世紀においても、減るどころか増える一方です。黙示録6章9-11では殉教者数が神によってあらかじめ定められていることが暗示されており、驚かされます。「小羊が第五の封印を解いたとき、私は、神のことばと、自分たちが立てたあかしとのために殺された人々のたましいが祭壇の下にいるのを見た。彼らは大声で叫んで言った。『聖なる、真実な主よ。いつまでさばきを行なわず、地に住む者に私たちの血の復讐をなさらないのですか。』すると、彼らのひとりひとりに白い衣が与えられた。そして彼らは、『あなたがたと同じしもべ、また兄弟たちで、あなたがたと同じように殺されるはずの人々の数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいなさい』と言い渡された。」
最近また、キリストにある信仰のゆえ、迫害され殺されていった兄弟姉妹のニュースが何件かありましたので、そのいくつかをここでご紹介します。神によってあらかじめ定められ、殉教していった兄弟姉妹たちです。キリストにある信仰のゆえに殉教したりすることがない日本やカンボジアでは、他人事のように感じてしまいがちですが、クリスチャンがこれら世界の兄弟姉妹らの苦しみを他人事として捉えてはいけない、聖書的理由があります。それは、兄弟姉妹の苦しみが、キリストの苦しみを具体化し世界に見せるため、また福音の前進のためであり、私たちキリストのからだである教会のためであることを、大変な拷問を受けたパウロのことばを通して、聖書は教えます。
「ですから、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。そして、キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。キリストのからだとは、教会のことです。」―コロサイ1:24
ソマリア―2008年10月27日、2005年に救われイスラム教からキリストに従う者に変えられた、マンサー・モハメッド兄弟(25歳)が、イスラム教過激派によって、キリスト教に改宗した罪で首を切られる公開処刑にされた(Compass Direct News)。
エリトリア―2008年10月から今年1月まで、3人の軍事刑務所に入れられていたクリスチャンらが、拷問最中に死んでいっている(Compass Direct News)。エリトリアでは、現在約3000人のクリスチャンが軍事刑務所に入れられており、背教を迫るための拷問が日常的に行われている。
イラク―2008年11月12日、モスルにおいて、クリスチャンである2人の姉妹が、イスラム教過激派の集団に銃で撃たれ殺された(Persecution.com)。モスルではクリスチャンたちを地域から追い出そうという運動が続いている。
中国―今年2月4日、クリスチャン検事で中国のクリスチャンたちの声でもある高智晟氏が、政府によって誘拐され、以来50日以上行方が分からなくなっている。高兄弟は2007年にも同様に政府によって誘拐され、共産党拘置所において死に近い拷問を50日間受けたことがあり、今回の誘拐は氏を抹殺するための誘拐だったのではと、内部の者たちは心配しているということである。(ChinaAid.com)
アメリカ―今年3月8日、イリノイ州のメリービルにある第一バプテスト教会で、牧師が日曜礼拝の説教中、銃を持った男に接近され、至近距離で撃たれて死亡。(OneNewsNow.com)
これら兄弟姉妹を通して、キリストのからだである教会が更に強められ、キリストが栄光を受けられ、福音が更に前進していることを感謝。と同時に、現在迫害されている兄弟姉妹たちが、御霊によって強められ、主によって与えられた使命を全うすることができるよう、世界の兄弟姉妹たちと共に祈ります。
2009/03/23
タケオ州教会献堂式
「受けるよりも与えるほうが幸いである」―使徒20:35
2009/03/13
死をも覚悟して
ワン・ニュース.comから拝借した、北朝鮮と韓国の国境の写真です。 現在およそ15,000人の亡命した北朝鮮人が、ソウルに在住しているそうですが、何と最近、その亡命した人の中で、救われ、「地下大学」なる学校で聖書の勉強をし、母国に福音を携えて戻る人がいるそうです(one news now.com、3月3日記事より)。一度国外に亡命した者が国に戻るということだけでも大変なことであるのに、キリストの福音を伝えるとなると、死は確実であるこの国で、主は素晴らしいみ業を成しておられます。私たちものんびりしてはおられない、そんな風に思わされるようなニュースです。主に益々栄光!「わたしがあなたがたをつかわすのは、羊をおおかみの中に送るようなものである。…彼らはあなたがたを衆議所に引き渡し、会堂でむち打つであろう。…彼らがあなたがたを引き渡したとき、何をどう言おうかと心配しないがよい。言うべきことは、その時に授けられるからである。語る者は、あなたがたではなく、あなたがたの中にあって語る父の霊である。…またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての人に憎まれるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」マタイ10:16‐22
「イエスもまた、ご自分の血で民をきよめるために、門の外で苦難を受けられたのである。したがって、わたしたちも、彼のはずかしめを身に負い、営所の外に出て、みもとに行こうではないか。」へブル13:12,11
2009/03/11
結婚6年目
10日は私たちの6年目の結婚記念日でした。主の憐れみで今日まで来ることができたことを心から感謝します。最近読んだ本、「キリストが死ぬために来られた50の理由("50 Reasons Why Christ Came to Die")」(著者ジョン・パイパー師)の、35章「キリストが苦しんで死なれたのは…結婚にその最も深い意味を持たせるため」の中で、結婚の、結婚を創造された神の、キリストを通して明らかにされた、その深い意図が書かれてあり、結婚する直前に色々教えられたはずなのですが、結婚6年目にして(!)、その深い意味を改めて(恥ずかしながら…)教えられつつあります。まだまだ聖書で言われるところの基準からは程遠いですが、主の助けを仰ぎつつ、マシューはキリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように妻を愛すること、私は教会が主に仕えるように、夫に仕えることを、教えられています。私たちの結婚を通して、主が意図されたその結婚の意味が、顕著にあらわされますように。「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。」―エペソ5:25
聖書にある神の結婚に対する意図は、キリストがご自身の民を愛されたように、夫も妻を愛すること、そしてキリストの民が主に応答しなければならないように、妻も夫に応答すると表現されている。その描写はキリストをこの世に遣わされた時から、神のご計画の中にあった。キリストは主の花嫁のために来られ、結婚のあるべきかたちを見せるために、ご自分の花嫁のために死なれたのである。
いや、その類似のポイントは、夫が妻らの手によって苦しまなければならないということではない。ある意味イエスに起こったということで、それは本当である。主は民―花嫁―をつくり上げるため、苦しまれた、そしてその民の中には、主の苦しみを起こした者たちもいる。そして主の悲しみのほとんどは、弟子たちが主を見捨てたためであった(マタイ26:56)。しかし類似のポイントは、イエスは彼らを死に至るまで愛され、彼らを退けられなかったことにある。
神の結婚に対する意図は、アダムとエバの結婚の前に、キリストの来臨にあった。私たちはこれを知っている、なぜならキリストの使徒が結婚の奥義を説明したとき、聖書の最初まで戻って、創世記2:24を引用し、「それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。」と言い、その次の文章で、つい先ほど引用したものを解釈してこのように言うのである―「この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです」(エペソ5:31-32)と 。
それは、神のご計画の中で結婚は、キリストの、ご自身の民との関係を見せることを最初から意図されていた、という意味である。結婚が「奥義」だと言われている理由は、結婚の目的が、キリストの来臨まではっきり啓示されていなかったからである。これで私たちは、結婚がご自身の民に対するキリストの愛を、この世でもっとはっきりさせるために造られたものだ、ということが分かる。
これがはじめから神のご計画のうちにあったということは、死に立ち向かわれたとき、キリストのご計画のうちにもあった。主はご自身の苦難の多くの意図のうちに、結婚の深い意味を明白にすることがあったことを、知っておられた。主のすべての苦しみは、特に夫に対するメッセージが含まれていた―このようにすべての夫が妻を愛すべきである、と。
神ははじめに、結婚がみじめなものになるとは意図されなかったが、ほとんどの結婚がみじめである。罪がそうさせるのだ。罪は私たちを互いに悪くあしらわせる。キリストはそれを変えるために苦しまれて死なれた。妻たちはこの変革に彼女たち自身の義務がある。しかしキリストは特別な任務を夫たちに与えられる。それゆえ聖書は言う、「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい」(エペソ5:25)と。 夫らはキリストではない。しかし彼らは主の似姿になるようにと召されている。そしてその似姿の特別な点は、脅迫や虐待なしに、妻の益のために苦しむ用意ができている、というものである。これは外からくる暴力から妻を守るため、苦闘することと同時に、妻からでさえも来る失望や虐待と苦闘することを含む。このような愛はキリストが、夫と妻のために死なれたゆえ、可能である。彼らの罪は赦された。罪のために二人のどちらかがどちらかを苦しませる必要はないのである。キリストがその苦しみを背負ってくださった。ゆえに、二人の赦された罪人として、私たちは悪を善に変えることができる。(pp.88-89, ブログ者訳)
2009/03/05
まことの慰め主
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