聖書年間通読で、現在ルカを読んでいるところですが、4日の
デザイアリング・ゴッドのブログにルカ7:36-50について、以下のような記事がありました。
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「その男の家でイスラエルの聖者が、食卓についておられた。モーセが預言した、その預言者が彼と夕食を共にしておられた。栄光の主、よみがえりでありいのちでおられるお方が、彼と顔を合わせて語っておられたのである。旧約の預言者、王たちが望み見たそのお方がやって来られたのだ。シモンにとっては、メシアをお招きできるなんて、精神が錯乱するほど素晴らしい出来事であるはずであった。
しかしシモンは驚かなかった。彼はイエスを見たが、彼の見たのは埃にまみれた、妄想だと思われてもおかしくないことを自称する、ナザレ人であった。
イエスのみ足は汚れていた。洗足を客にすすめることは、中近東の人々にとっては何千年も深くしみついた習慣であった。洗足をすすめないことは、その客を辱めることであった。シモンがそれを単純に忘れることなどないはずである。
しかしイエスは気を害された気配をまったく見せられなかった。食卓につき、うわべだけのあたりさわりのない話が交わされた。幾つかの質問がなされた。
突然イエスに向いていた目のすべてが心配しているかのように、主のみ足に集中した。イエスは後ろを向かれた。
明らかにこの家の者でない女性が一人、主の側に立ちすくんでいた。女性は小さな壺を片腕に抱き、主をまじまじと見つめていた。そしてむせび泣き始め、膝をついた。涙が溢れるまま、体を前にかがめ、イエスの汚れたみ足に涙を落とし、自分の髪の毛で、汚れと共に涙を拭いた。それからイエスのみ足に接吻をした。
はっと息を飲むのと、つぶやきが食卓を包んだ。この女性には地元の客たちみんなに知られている噂があった。それが噂であるかを公に語ることさえ、不適切であった。女性はただ単に「罪人」と呼ばれていた。それにどのような意味が含まれていたか、全ての人が知っていた。
そのためイエス以外のすべての者が、その罪人の行為に腹を立てた。イエスには驚かれた様子はなかった。そして主は彼女をまったく止められなかった。気づいた僕が女性の方に動きかけたが、シモンが手を振って引きとめた。これはとても意味深い瞬間だ。
イエスのみ足に壺から香油を注ぎ出す女性をじっと見つめながら、シモンは軽蔑と快感を感じた。彼のイエスに対する評価が正しかったことが、目の前で明らかにされた。この不道徳な女性に対する驚くほどの洞察力の欠如ほど、この預言者と言われている人の虚偽を物語るものは他にはない。この女に触れられることによって自分を汚す聖者はどこにもいない。シモンは議会に報告することを思い描き始めた。
「シモン、あなたに言いたいことがある。」イエスのおことばがシモンの注意を戻した。「先生、お話しください。」シモンは答えた。
「ある金貸しから、ふたりの者が金を借りていた。ひとりは五百デナリ、ほかのひとりは五十デナリ借りていた。彼らは返すことができなかったので、金貸しはふたりとも赦してやった。では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるか?」
シモンは答えた、「よけいに赦してもらったほうだと思います。」イエスは言われた、「あなたの判断は当たっている。」
女性の方を向いて、主はシモンに言われた、「この女を見たか。わたしがこの家にはいって来たとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、この女は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あながは、口づけしてくれなかったが、この女は、わたしの足に香油を塗ってくれた。だから、わたしは言う。『この女の多くの罪は赦されている。というのは、彼女はよけいに愛したからである。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛さない。』」
そして女に、「あなたの罪は赦されている。」と言われた。
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「少ししか赦されない者は、少ししか愛さない。」ということばは、私たちに巨大な真実を現わす―
私たちは自分自身の罪の重大さと、神がそれをお赦しになる憐れみの莫大さに気づいた分だけ、神を愛する。パリサイ人として、シモンは、かなりの神学的教育を受け、旧約聖書を広範囲に渡って覚え、厳格な自己自制を訓練し、詳細に十分の一をささげ、ほとんどの時間を神に「仕えること」に費やし、信心深い者としての評判を楽しんでいたであろう。しかし彼は神を愛していなかった。
一方、自分の恥ずべき罪以外ささげるものが一切なかったこの女性を、イエスはまことの礼拝のモデルだと言われた。なぜか?それは単純に、福音にあるイエスがすすめられる赦しを、女がどれだけ必死になって必要としており、そして主がそれをお与えになることができると信じたからであった。
それがイエスの求められるものである。それが救いにいたる信仰である。
まことの礼拝とは、神に対する熱烈な愛である。私たちのような罪人にとって、その愛の燃料は、深い認識である。元奴隷商人で、牧師に変わったジョン・ニュートンのことば、「私は大変な罪人で、キリストは偉大な救い主であられる」のことばに、それを見出すのである。(ブログ者訳)