2009/08/22

みことばを心にたくわえる

中国大陸から宣教訓練のためにカンボジアへやってきた、約20人の兄弟姉妹が、私たちを訪ねてカンポットへ見学に来てくれました。現在建築中の水力発電所の開発のため約5,000人の中国人が大陸からやってきていると言うこのカンポットで、宣教できる可能性があるかどうかを視察に来たこの兄弟姉妹、交わっているだけで、キリストの光が朝明けのまぶしい太陽のように輝きます。聖書を所持することが困難なため、日常生活の中で必死で新約聖書のほとんどを暗記している彼ら、聖書のみことばが自由自在に口からこぼれてくるのに、驚かされました。
あなたに罪をおかさないため、私は、あなたのことばを心にたくわえました。」―詩篇119:11
もっとみことばを覚えなければいけない!そんな風に励まされた一日でした。

2009/08/21

無駄でない人生

マシューの両親です。昨年12月に45年間連れ添った夫を天に見送った義母ですが、一人きりになった寂しさと闘う傍ら、70歳になるこの未亡人が何か主のためにできることはないかと祈り続けていました。エルサレムのパレスチナ自治区で、イスラム教徒の子供たちのために設立されたキリスト教の小学校で教鞭を執らないか、という話が先々週舞い込んで来、周囲の子供たちの心配をよそに、2週間と経たないうちに荷物をまとめてイスラエルに飛び立ちました。

爆弾が日常のように飛び交うエルサレム近郊です。ましてやパレスチナ自治区、何が起こるか分かりません。でも、子供たち一家に囲まれた居心地のいい生活よりも、どんなところでもいいから主に用いられたい、残りの人生を無駄にしたくない、そう口癖のように言っていた義母でした。

主のために生きる人生―自分のために生きるより、はるかに喜びに満ちている人生です。この世の安心や安全を求めて生きるより、はるかに安心で安全な人生です。身に危険は及ぶかも知れません。でも永遠を主と共に過ごすことのできる天のみ国での生活が一段と近づきます。「よくやった、忠実なしもべよ。」と、主の主、王の王が、み前に立たされた時に言って下さるかも知れない希望があります。主のために生きる人生―決して無駄ではない人生です。

ペテロがイエスにこう言い始めた。『ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。』イエスは言われた。『まことに、あなたがたに告げます。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、その百倍を受けない者はありません。今のこの時代には、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け、後の世では永遠のいのちを受けます。』」―マルコ10:28-30

2009/08/20

教職修養会

写真はビーチでブランコに乗って遊ぶ娘です。
18~20日の3日間、教団教職の修養会が海沿いのコンポンソム州で開催され、マシューがセミナーの講師を務めました。主題は「夫婦―キリストと教会の契約関係」、聖書から夫婦の関係がどうあるべきかを、キリストと教会の関係を通して学びました。牧師、信徒に関わらず、家庭内の夫婦関係が薄いこの国で、その国の習慣ではなく、聖書が教えるところの基準に従いたいと聖書を学ぶクリスチャン家庭が起こされるよう、祈っています。

2009/08/07

牧師3人が首をはねられる―ナイジェリア北部

シャリア法を国の法律にせよとイスラム教過激派が運動を起こしているナイジェリア北部で、クリスチャンに対する迫害が強まっています。先週クリスチャン50人 がイスラム教過激派グループ、ユスフィアによって捕えられ、キリストを捨てイスラム教への改宗するよう迫られ、拒んだ牧師3人が、首をはねられ殺されました(Daily Sun6日の記事より)。その3人の牧師のうちの一人は、ユスフィアのリーダー、モハメッド・ユスフに福音を語ったことがあると、改宗を拒んだ時に言ったそうで、その場で首をはねられたそうです。3人の牧師の告別式では黙示録7:9‐15から、主に召されたときにはいつでも死ぬことができるよう、心の用意をしようと、クリスチャンの兄弟姉妹らに呼び掛けがあったということです。

あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。
彼らは大声で叫んで言った。『救いは、御座にある私たちの神にあり、小羊にある。』
み使いたちはみな、御座と長老たちと四つの生き物との回りに立っていたが、彼らも御座の前にひれ伏し、神を拝して、
言った。「アーメン。賛美と栄光と知恵と感謝と誉れと力と勢いが、永遠に私たちの神にあるように。アーメン。』
長老のひとりが私に話しかけて、『白い衣を着ているこの人たちは、いったいだれですか。どこから来たのですか。』と言った。
そこで、私は、『主よ。あなたこそ、ご存じです。』と言った。すると、彼は私にこう言った。『彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。
だから彼らは神の御座の前にいて、聖所で昼も夜も、神に仕えているのです。そして、御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られるのです。』」(黙示7:9‐15)

主に召されたときは、いつでも死ぬ用意が果たして私にはできているだろうか、いや、できていない、と記事を読みながら思わされました。
牧師らの殉教がナイジェリアの兄弟姉妹らの励ましとなるよう、そしてナイジェリア北部で大きな実が実るよう、覚えてお祈り下さい。

2009/08/04

キリストは偉大な救い主

聖書年間通読で、現在ルカを読んでいるところですが、4日のデザイアリング・ゴッドのブログにルカ7:36-50について、以下のような記事がありました。

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「その男の家でイスラエルの聖者が、食卓についておられた。モーセが預言した、その預言者が彼と夕食を共にしておられた。栄光の主、よみがえりでありいのちでおられるお方が、彼と顔を合わせて語っておられたのである。旧約の預言者、王たちが望み見たそのお方がやって来られたのだ。シモンにとっては、メシアをお招きできるなんて、精神が錯乱するほど素晴らしい出来事であるはずであった。

しかしシモンは驚かなかった。彼はイエスを見たが、彼の見たのは埃にまみれた、妄想だと思われてもおかしくないことを自称する、ナザレ人であった。

イエスのみ足は汚れていた。洗足を客にすすめることは、中近東の人々にとっては何千年も深くしみついた習慣であった。洗足をすすめないことは、その客を辱めることであった。シモンがそれを単純に忘れることなどないはずである。

しかしイエスは気を害された気配をまったく見せられなかった。食卓につき、うわべだけのあたりさわりのない話が交わされた。幾つかの質問がなされた。

突然イエスに向いていた目のすべてが心配しているかのように、主のみ足に集中した。イエスは後ろを向かれた。

明らかにこの家の者でない女性が一人、主の側に立ちすくんでいた。女性は小さな壺を片腕に抱き、主をまじまじと見つめていた。そしてむせび泣き始め、膝をついた。涙が溢れるまま、体を前にかがめ、イエスの汚れたみ足に涙を落とし、自分の髪の毛で、汚れと共に涙を拭いた。それからイエスのみ足に接吻をした。

はっと息を飲むのと、つぶやきが食卓を包んだ。この女性には地元の客たちみんなに知られている噂があった。それが噂であるかを公に語ることさえ、不適切であった。女性はただ単に「罪人」と呼ばれていた。それにどのような意味が含まれていたか、全ての人が知っていた。

そのためイエス以外のすべての者が、その罪人の行為に腹を立てた。イエスには驚かれた様子はなかった。そして主は彼女をまったく止められなかった。気づいた僕が女性の方に動きかけたが、シモンが手を振って引きとめた。これはとても意味深い瞬間だ。

イエスのみ足に壺から香油を注ぎ出す女性をじっと見つめながら、シモンは軽蔑と快感を感じた。彼のイエスに対する評価が正しかったことが、目の前で明らかにされた。この不道徳な女性に対する驚くほどの洞察力の欠如ほど、この預言者と言われている人の虚偽を物語るものは他にはない。この女に触れられることによって自分を汚す聖者はどこにもいない。シモンは議会に報告することを思い描き始めた。

「シモン、あなたに言いたいことがある。」イエスのおことばがシモンの注意を戻した。「先生、お話しください。」シモンは答えた。

「ある金貸しから、ふたりの者が金を借りていた。ひとりは五百デナリ、ほかのひとりは五十デナリ借りていた。彼らは返すことができなかったので、金貸しはふたりとも赦してやった。では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるか?」

シモンは答えた、「よけいに赦してもらったほうだと思います。」イエスは言われた、「あなたの判断は当たっている。」

女性の方を向いて、主はシモンに言われた、「この女を見たか。わたしがこの家にはいって来たとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、この女は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あながは、口づけしてくれなかったが、この女は、わたしの足に香油を塗ってくれた。だから、わたしは言う。『この女の多くの罪は赦されている。というのは、彼女はよけいに愛したからである。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛さない。』」

そして女に、「あなたの罪は赦されている。」と言われた。

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「少ししか赦されない者は、少ししか愛さない。」ということばは、私たちに巨大な真実を現わす―私たちは自分自身の罪の重大さと、神がそれをお赦しになる憐れみの莫大さに気づいた分だけ、神を愛する。

パリサイ人として、シモンは、かなりの神学的教育を受け、旧約聖書を広範囲に渡って覚え、厳格な自己自制を訓練し、詳細に十分の一をささげ、ほとんどの時間を神に「仕えること」に費やし、信心深い者としての評判を楽しんでいたであろう。しかし彼は神を愛していなかった。

一方、自分の恥ずべき罪以外ささげるものが一切なかったこの女性を、イエスはまことの礼拝のモデルだと言われた。なぜか?それは単純に、福音にあるイエスがすすめられる赦しを、女がどれだけ必死になって必要としており、そして主がそれをお与えになることができると信じたからであった。

それがイエスの求められるものである。それが救いにいたる信仰である。

まことの礼拝とは、神に対する熱烈な愛である。私たちのような罪人にとって、その愛の燃料は、深い認識である。元奴隷商人で、牧師に変わったジョン・ニュートンのことば、「私は大変な罪人で、キリストは偉大な救い主であられる」のことばに、それを見出すのである。(ブログ者訳)

2009/08/01

クリスチャン公開処刑―北朝鮮

7月24日のニュースで、3児の母であるリー・ヒョンオク(33歳)という女性が、聖書を配布した罪と、米国と韓国のスパイ容疑で、中国の国境近くに位置するリョンチョンという地域で、今年6月16日に公開処刑されたということです(クリスチャン・ポストより)。ヒョンオクさんの夫、子供たち、両親も、姉妹が処刑された翌日、政治犯刑務所に送られたそうです。北朝鮮では現在でも、聖書を所持している者は、発見された場合、強制収容所に送られるか、公開処刑を受けます。韓国に亡命した北朝鮮人らの中で、救われ、福音を同邦人に伝えたいと母国に帰って行く者たちがいるというニュースを聞いたことがありますが、まさに、死を覚悟での帰国です。

どうぞ、ヒョンオクさんの残されたご家族の上に主の慰めがあるよう、また収容所で守られるよう、命を掛けて聖書を配布したヒョンオクさんのご家族が、ヒョンオクさんの信仰を受け継ぎ、収容所で光となることができるよう、北朝鮮の兄弟姉妹らが厳しい迫害の中でも強められるように、また福音がとどまることなく更に北朝鮮全土に広められ、国家のリーダーたちの耳まで届くよう、覚えてお祈り下さい。

我らの神は生ける神

カンポットではひたすら雨が降り続いています。カンボジアの南部では洪水警報が出ているそうです。


教会牧師、ヴター先生の運営している孤児院の隣に、数週間前ヨーロッパ人が引越してきました。最初は問題もなく隣同士うまくやっていたそうですが、ある些細なことをきっかけにそのヨーロッパ人が憤慨し、牧師に悪口雑言を言うようになり、果ては師が孤児たちに暴行を加えていると近所に噂をふりまき、警察と裁判所が関わってくるほどの大事に発展しました。朝、昼、晩と、塀の向こうからキリスト教の神がいかに悪いかを叫んでいたそうですが、2週間と立たないうちに、そのヨーロッパ人の息子が川で溺れて事故死、本人も息子の遺体を抱えて家に戻った丁度その日、屋内で毒蛇に咬まれ、引越してきたばかりの家を手放すことになりました。近所ではキリスト教の神に対する恐れが起こり、私たちクリスチャンの間でも、主のみ力をこの目で拝見し、改めて畏敬の念に包まれています。

「生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです。」―へブル10:31