2009/04/24

キリストの名が新聞記事に

今日の新聞(プノンペン・ポスト)の記事に、「キリスト」の名が掲載されました。ドーイッ被告の裁判が、いよいよ強制収容所S-21の話に移り、クメール・ルージュの実態が徐々に明らかになるかという時、被告が自首に至った理由が、「キリストによるもの」であることを、公の裁判の場で言述したと言うのです(プノンペン・ポスト、4月24日記事)!!クメール・ルージュの一幹部であったフン・セン首相が、裁判にかけられないといけないのではないかという外国メディアの報道を嘲笑し払いのけたそうですが、このカンボジアでは自分の罪を告白する習慣がありません。そういう中、各新聞が、「カンボジア人たちはなぜドーイッ被告が自分の罪を素直に認めているのか理解に苦しんでいる」と報じたのですが、それが「キリストのゆえ」であるとドーイッ被告自身が本日言述、まさに「主に栄光!!!」です。この裁判の模様はラジオで生中継されており、多くのカンボジア人が家庭で、職場でこの中継に真剣に耳を傾けているのですが、今日、キリストの名が、カンボジア全土に響き渡りました。

主に栄光!!!

2009/04/20

猛暑

カンポット州にあるボコー山の麓で、ハイキングをするマシューです。ここ数週間、水遊びがしたくなるような、日中気温39度といううだるような猛暑が続いています。カンボジア生まれで暑さに強い娘も、さすがにこの暑さで、しかも停電が頻繁に起こるため扇風機を使えない時があり、体中にあせもができてしまいました。時折「あっちっち~」とあせもを掻きむしりながら言っています。今日、障害者のために建てられた施設の開所式が近所であり出かけて来たのですが、この暑さにも関わらず、長そでに被りものをしているイスラム教徒の女性たち、さすがに暑そうでした。彼女たちはあせもはできないのだろうか…式最中、そんなことを真剣に考えてしまった私です。

2009/04/19

キリストに従うこと

デザイアリング・ゴッド(DesiringGod.org)のブログで見つけたトラクトです。「繁栄の神学を矯正するトラクト」とタイトルが付けられていました。挿絵の下に、「神はあなたを愛しておられ、あなたの人生のため素晴らしいご計画がおありになる」と説明がされてありますが、絵自体は、ローマ帝国時代に頻繁に行われたクリスチャンの処刑です。つまり、神の私たちクリスチャンに対するご計画は、私たちがこの世の安心や快楽を持つこと、楽な生活を送ることではなく、神だけがお与えになることができる、永遠に続く安心と喜び、楽しみ、つまり、神ご自身であること、そのために神は私たちが依存するこの世のすべてのもの(時には私たちのこの肉体でさえも)を取り除かれる、という意味です。デートリッヒ・ボンヘッファーの本、「キリストに従うこと(the Cost of Discipleship)」を思わせるような絵です。 
だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。」―マルコ8:34-36

2009/04/12

なぜキリストは苦しんで死なれたのか?

私たちの罪のため十字架にかけられ、死にて葬られ、3日目によみがえられた主イエス・キリストのみ名を崇めます。イースターとは言うものの、なぜキリストが苦しんで死なれたのか、その理由を深く掘り下げて学ぶことは、私たちはあまりありません。度々ご紹介しています、ジョン・パイパー師の「イエス・キリストの受難(the Passion of Jesus Christ)」の第一章で、師はキリストの受難の第一の、そして最も重要な理由は、「神のみ怒りを吸収するため」であると、みことばを通して説明しています。読むと、改めてキリストが成してくださったみ業をほめたたえずにはいられません。このイースターの日、キリストが受けるべき栄光を受けられますように!
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キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。(ガラテヤ 3 : 1 3)

神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。(ローマ 3 : 2 5)

私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(1 ヨハネ4 : 1 0)

(引用)もし神が義であられなかったら、御子が苦しんで死ぬことを要求されなかったであろう。そしてもし神が愛であられなかったら、御子は苦しんで死ぬことをいとわずに喜んでされることはなかったであろう。しかし神はともに義であられ愛であられる。それゆえ主の愛はご自身の義の要求を満たそうと意図される。主の律法は、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申命記6:5)と要求する。しかし私たちすべてのものは、神より他のものを愛している。罪とはこれである―神以上に他のものを好み、それらの好みに従って行動することにより、私たちは神を侮辱する。ゆえに、聖書は、「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、」(ローマ3:23)という。私たちはもっとも楽しいことを称賛する。そしてそれは神ではないのである。
 それゆえ罪は小さくない。なぜならそれは小さい主君者に対して犯すものではないからだ。侮辱の深刻さは、侮辱された方の尊さに値する。天地万物の創造者は、尊敬と賞賛と忠誠を受けるに無限にふさわしいお方である。ゆえに、主を愛さないことは、ささいなことではない―それは反逆罪である。神を中傷し、人類の幸福を破壊する。
 神は義であられるので、天地万物のこれらの犯罪を伏せられない。主は彼らに対し聖なるみ怒りを発せられるのである。彼らは罰せられるにふさわしく、主はこのことを明確にされている、「罪から来る報酬は死です」(ローマ6:23)、「罪を犯した者は、その者が死ぬ」(エゼキエル18:4)と。
 聖なる呪いがすべての罪の上にかかっている―この世が不義であることをさばかない、神の価値を下げることが支持される、偽りが事実の中心を支配する…それゆえ、神は言われる、「律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。」(ガラテヤ3:10、申命記27:26)と。
 しかし主の愛は、罪深い人類の上にのしかかっている呪いに安息しない。主はたとえどんなに聖いお方であられても、み怒りを現わすことを喜ばれない。であるから神は、そのみ怒りを吸収させるため、神に信頼するすべての者の呪いを背負うため、ご自身の御子をお送りになったのである。「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。」(ガラテヤ3:13)これが、前述の引用句(ローマ3:25)にある「なだめの供え物」ということばの意味である。身代わりを与えることによって、神のみ怒りを取り除くということを、表わす。身代わりは神ご自身が備えられる。身代わりのイエス・キリストは、み怒りを取り消すだけでなく、吸収され、そして私たちに向けられていたみ怒りをご自身へとそらされるのである。神のみ怒りは義であり、撤回されることなく出し尽された。
 神を軽くあしらったり、そのご愛を価値のないものにするのはやめよう。私たちの罪の深刻さと、私たちに対する主のみ怒りの義を考慮しない限り、神に愛されることを畏れをもって驚くことはない。しかし、恵みにより、私たちの価値のなさに気づかされる時、キリストの苦しみと死をみて、「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、[神のみ怒りを吸収するための]なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです」(1ヨハネ4:10)と言うであろう。(20-21ページより、ブログ者訳)

2009/04/08

クメール正月と停電

クメール正月がやって参りました。実際の正月は14-16日なのですが、学校も商業も、すでに今週から休暇に入り、カンポット、カエップ州とも帰省客で賑わっています。この休暇ですが、約2週間続きます。カンポット州は都会からの帰省で、突然の人口増加に電力が間に合わないためか、毎年正月の期間はひどい停電が起こります。私たちの住んでいるチョムクリール村では昨日は16時間停電が続き、この猛暑で冷蔵庫のものがすべてダメになってしまうだろうと思っていたのですが、電気が戻ってから冷蔵庫を開けたらまだ冷たい!小さなことでも憐れんでくださる主に、心から感謝しました。

主人の再臨に備えて

写真はプノンペン・ポストから拝借した、タイとの国境で警備をするカンボジア人兵士です。プレヴィヒア州における タイ国境沿いでの兵士同士のにらみ合いが始まって9か月に入りますが、先週3日タイ軍のちょっとしたミスが銃撃戦に至り、タイ側3人の死者を出す事件が起こりました。ベトナムに家族がいる私たちの友人は、カンボジアとタイの間で戦争が起こったら、いつでもカンボジアを支援できるよう、二人の弟が軍に招へいされたと話してくれました。また先週タイ外相が発言したカンボジア首相に関するコメントが首相の気に障ったとか何とかで、両国間の関係の溝を益々深めており、地元のニュースでは両国間で戦争が間もなく始まるのではないか、と人々の恐怖をあおっています。

でもクリスチャンにとっては今のこの時は、恐怖に縛られるときではありません。キリストはこの世の終わりに関して次のように言われます、「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、…しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。…これらのことすべてを見たら、あなたがたは人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。」(マタイ24:7、8、33)と。クリスチャンにとってこの世の終わりを思わせるこの不安定な時代は、主人(キリスト)の再臨に備えるときであります。

主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食事をきちんと与えるような忠実な思慮深いしもべとは、いったいだれでしょうか。主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。まことに、あなたがたに告げます。その主人は彼に自分の全財産を任せるようになります。」(マタイ24:45-47)

2009/04/01

「私は犯したすべての殺人を悔いる」―ドーイッ被告

引き続き行われているクメール・ルージュ裁判ですが、昨日行われた裁判の席で、被告人ドーイッ被告が、「私はポル・ポト政権下で犯したすべての殺人を悔いる」と告白したと、新聞(カンボジア・デイリー)のトップに掲載されていました。「現在、世間一般の人々は私を臆病もの、あるいは人でなしだと、みなしている。私はそれらを正直に、尊重して受け入れたい」と、与えられた約30分間、告白したそうです。主がドーイッ兄に力とことばを与えて下さり、行った罪の告白を、はっきりできるように、それによってキリストの光が放たれるようにと祈って来た私たちですが、兄の裁判の被告席での告白を聞いて、主のみ名を崇めました。国連が、飛び交っている賄賂等の腐敗を止めようとしても埒が明かないような(プノンペン・ポスト参照)、またドーイッ被告以外の被告全員がポル・ポト時代に行った一切の犯罪を否定しているこの裁判で、ドーイッ被告の率直な告白が、人々を驚かせ、戸惑わせています。キリストが、ドーイッ兄の告白を通して益々栄光をお受けになるよう、引き続き祈っています。