差別意識、偏見は、クリスチャン、ノンクリスチャン、国籍、年齢に関わらず、誰の内にも潜む罪です。黒人奴隷貿易、ナチスのユダヤ人大虐殺、ポル・ポトの大虐殺…すべて一方が他方より優れているという意識の下、行われました。日本人に身近なのは、南京虐殺です。「中国人は下等な人種である」と、日本軍が大量の生きた中国人のからだを、科学的実験に利用し虐殺していきました。
私自身、自分の内にある差別意識に初めて気づかされたのは、フィリピンで生活をし始めた11年前のことです。「日本人の方がはるかに優れている」と、無意識のうちに絶えず思っていました。結婚当初も夫婦間の諍いのほとんどは、この私の意識が原因で起こったものでした。何度か主にその罪を示され、へりくだららされる体験をしたにも関わらず、未だにこの意識と葛藤するあたり、この罪の根深さを思い知らされています。多くの宣教師らの交わりの中でも、「私の国はカンボジアより優れている」という意識が、会話の中で溢れています。私たち現地で働く宣教師らにとっては特に、偏見、差別意識は日常生活の上での霊的戦いです。
ジョン・パイパー師(ベツレヘム・バプテスト教会)の本、「イエス・キリストのパッション―死ぬために来られた50の理由("The Passion of Jesus Christ-50 Reasons Why He Came to Die")」の44、45章で、師は人種間の敵対心について以下のように教えます。
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「キリストこそ…二つのものを一つにし、隔ての壁を打ち壊し、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。」(エペソ2:14‐16)
「新約聖書時代におけるユダヤ人と異邦人(非ユダヤ人)間の疑い、偏見、そして相手を傷つける態度は、今日における人種、民族、そして国家間の対立と同じくらい深刻であった。…イエスは、人種間の和解に至るまったく新しい道を切り開くため、死なれた。儀式や人種は交わりの基盤ではない。キリストがその基盤である。主は律法を完全にまっとうされた。人々を分け隔てていた律法のすべてが、主にあって廃止されたのである。―一つを除いて―その一つとは、イエス・キリストの福音である。…イエス・キリストは神の御子であられる。神が主を、罪人を救い、人種を永遠に和解させるためのお方、また唯一の手段として、この世にお遣わしになった。もし私たちがこれを否定するなら、永遠の希望と、人々の間の永続する一致の、その土台を崩すのである。人類がこの事実を知り、楽しみ味わうことによってのみ、互いに愛し受け入れ合うことが可能になる。
…イエス・キリストはある一部族の神ではない。主は一つの文化や一つの民族に属されない。主は『世の罪を取り除く神の小羊』(ヨハネ1:29)であられる。「ユダヤ人とギリシャ人[あるいは他のどのグループ]との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。『主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる』のです」(ローマ10:12‐13)。」(ブログ者訳)
アクセス・エイカース:キリストがこの身によって崇められることを願う私たちの日常生活、またはいい説教、あるいは世界のクリスチャンニュース等を紹介…「わたしが切実な思いで待ち望むことは、…生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストがあがめられることである。」―ピリピ1:20
2009/07/31
2009/07/25
カンポット州牧師祈祷会
2009/07/23
日食
プノンペンポストから拝借した、プノンペンで撮影された日食の写真です。プノンペンでは31%の日食を確認することができたそうです(23日プノンペンポストより)。南アジアで観察できると聞いたので、ここカンポットでも観察することができるかも知れないと、早朝から娘と二人で屋外に出て今か今かと待っていたのですが、カンポットは曇りで、残念ながらまったく見ることができませんでした。
カンボジアでも、諸外国と同じように、日食、月食には不運がつきもの、という迷信が人々の間で信じられており、日食に合わせて寺にお参りに行くとその不運を避けられると、沢山の人々が寺に参拝に行きます。そのような迷信に束縛されない、それら偉大な万象を造られた創造主を心から礼拝することができるクリスチャンの人生は、何と自由だろうと思います。
「天に目を上げて、日、月、星の天の万象を見るとき、魅せられてそれらを拝み、それらに仕えないようにしなさい。それらのものは、あなたの神、主が全天下の国々の民に分け与えられたものである。」-申命記4:19
カンボジアでも、諸外国と同じように、日食、月食には不運がつきもの、という迷信が人々の間で信じられており、日食に合わせて寺にお参りに行くとその不運を避けられると、沢山の人々が寺に参拝に行きます。そのような迷信に束縛されない、それら偉大な万象を造られた創造主を心から礼拝することができるクリスチャンの人生は、何と自由だろうと思います。
「天に目を上げて、日、月、星の天の万象を見るとき、魅せられてそれらを拝み、それらに仕えないようにしなさい。それらのものは、あなたの神、主が全天下の国々の民に分け与えられたものである。」-申命記4:19
2009/07/21
信仰の試練―迫害
「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
…たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。」(詩篇23:1、4)
死の陰の谷を通されている世界各国のクリスチャンの兄弟姉妹らのことを思うと、私の悩みは何と小さいことかと、良く思わせられます。
個人的ですが、私の母方の祖父母は戦時中、クリスチャンであるがゆえに「耶蘇教」と呼ばれ、迫害を受けました。祖父は当時国鉄で働いていたのですが、毎朝天皇礼拝の時に頭を下げなかったため、上司から足で頭を蹴られたり、床に踏みつけられたり、職員が一番嫌がる仕事をさせられたそうです。祖母は毎日の米の配給をもらえなかったり、近所の人たちから口を聞いてもらえなかったり、夫が帰宅すると職場で嫌がらせを受けるのに耐えられずにやけ酒に走るし、果ては子供たちが「耶蘇教」と呼ばれ石を投げつけられるのを見て、毎晩涙を流して主にすがったそうです。世界中のクリスチャンたちが直面している迫害に比べたら、大したことはない迫害ですが、この迫害が祖父母の信仰を大きく成長させたことは、晩年の祖父の口癖、「私は罪人のかしらです」(1テモテ1:15)から推測することができます。
聖書は、「キリスト・イエスにあって信心深く生きようとするクリスチャンはみな、迫害を受ける」(2テモテ3:12)と教えます。またこの「信仰の試練は、火を通して精錬されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るもの」(1ペテロ1:7)である、とも教えます。迫害に遭った時に、詩篇の作者らと共に、「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私と共におられますから」、「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました」(詩篇119:71)、と言うことができるようなキリスト者に成長させられたい、そう願います。
2009/07/20
お祈り下さい3
ソマリアでもイスラム教徒によるクリスチャン迫害が過熱化しています。
20日早朝、マハッダイ・ウェインという村で、元イスラム教徒のクリスチャンがイスラム教過激派のアル・シャバーブ(アルカイーダと関係)によって銃殺されたということです(Compass Direct Newsより)。このグループは「浄化」のためという名目で国中のキリスト教に改宗した元イスラム教徒たちを監視しており、今月10日にも国境沿いの難民キャンプで、7人のクリスチャンの首を切る公開処刑を行い、またクリスチャン女性らに乱暴を加えているそうです。
どうぞソマリアのクリスチャンがこの試練の中で益々光を放つことができるよう、処刑によって両親を失った孤児たちに主が良い避難場所をお与え下さるよう、また不可能なことは何一つない主が更に国内で福音を聞いて救われる者らを起こして下さるよう、覚えてお祈り下さい。
20日早朝、マハッダイ・ウェインという村で、元イスラム教徒のクリスチャンがイスラム教過激派のアル・シャバーブ(アルカイーダと関係)によって銃殺されたということです(Compass Direct Newsより)。このグループは「浄化」のためという名目で国中のキリスト教に改宗した元イスラム教徒たちを監視しており、今月10日にも国境沿いの難民キャンプで、7人のクリスチャンの首を切る公開処刑を行い、またクリスチャン女性らに乱暴を加えているそうです。
どうぞソマリアのクリスチャンがこの試練の中で益々光を放つことができるよう、処刑によって両親を失った孤児たちに主が良い避難場所をお与え下さるよう、また不可能なことは何一つない主が更に国内で福音を聞いて救われる者らを起こして下さるよう、覚えてお祈り下さい。
2009/07/19
お祈り下さい2
激戦が続いているパキスタンとアフガニスタンの国境ですが、それと同時にタリバンの矛先がクリスチャンに向けられており、最近、「お前たちがクリスチャンであるのは分かっている。この地域を離れるか、イスラム教に改宗して150万ルピー($18,500)を支払うか、あるいは自爆テロの攻撃に遭うかのいずれかを選択することを命令する。」という手紙をパキスタンのあらゆる教派の教会に送りつけているということです(18日のpersecution.orgより)。最近もパキスタンで、複数のクリスチャンが背教を拒んだために、過激派のイスラム教徒たちによって残酷な方法で殺されており、クリスチャンたちは試練に直面しています。愛する者を失ったクリスチャンの兄弟姉妹が慰められるように、また移動に移動を続けている兄弟姉妹たちに落ち着ける良い場所が与えられるように、そして行く先々で福音が更に広められるように、どうぞ覚えてお祈りください。
2009/07/15
2009/07/14
洪水
2006年5月に起こったカンポット市内の洪水の様子です(F.E.A.R.から拝借)。カンポットは海沿いの州であるためか、時々大きな洪水が起こることで有名です。これほどひどくはないのですが、数日前の大雨で、市内郊外の多くの家が床上浸水、私たちの宣教師仲間の家の何件かも床上浸水で、大変な被害を受けました。先週引越してきたばかりの宣教師一家の家などは、床上1mの浸水被害に遭い、電化製品すべてが故障、ほとんどの家具も台無しになってしまいました。泥だらけになった家を掃除するため、早速宣教師たちが集まりました。「なぜ…」という落胆が、一家を覆っています。私たちの家が同じような目に遭っていたら、私たちも途方に暮れただろうと思います。
「だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。」(2コリント4:16‐18、口語訳)
死に面したこともしばしばあり、39回のむち打ちの刑を5度、石で打たれたことが1度、難船したことが3度、一昼夜海の上を漂い、同邦、異邦人から迫害を受け、盗難に遭い、眠られない夜を過ごし、飢え渇き、空腹に耐え、寒さに凍え、着る服がなかったこともある使徒パウロ(2コリ11:23‐27)が、それらの患難を「軽い患難」と呼ぶのです。なぜならそれらは私たちに、あふれるばかりの「永遠の重い栄光を」得させるからである、と言います。「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。」(ローマ8:18)とも。滅ぶことのない栄光のからだ、新天地、御子、み父と共に過ごすことのできる永遠に比べれば、現在の色々な苦しみ、悩みは、取るに足りない…私たちの想像を超える患難を通った人のことばです。困難の中でそのように言うことができるように、助けて下さいと、主に祈ります。
「だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。」(2コリント4:16‐18、口語訳)
死に面したこともしばしばあり、39回のむち打ちの刑を5度、石で打たれたことが1度、難船したことが3度、一昼夜海の上を漂い、同邦、異邦人から迫害を受け、盗難に遭い、眠られない夜を過ごし、飢え渇き、空腹に耐え、寒さに凍え、着る服がなかったこともある使徒パウロ(2コリ11:23‐27)が、それらの患難を「軽い患難」と呼ぶのです。なぜならそれらは私たちに、あふれるばかりの「永遠の重い栄光を」得させるからである、と言います。「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。」(ローマ8:18)とも。滅ぶことのない栄光のからだ、新天地、御子、み父と共に過ごすことのできる永遠に比べれば、現在の色々な苦しみ、悩みは、取るに足りない…私たちの想像を超える患難を通った人のことばです。困難の中でそのように言うことができるように、助けて下さいと、主に祈ります。
2009/07/13
ドロス号来訪
ドロス号がシハヌークビル港に到着しました。タイタニック号が造船された数年後(1914年)に造られた船だそうで、世界で最も古い船の内に入るそうです。このドロス号ですが、キリスト教書籍約6,000冊を販売しており、世界の、特にキリスト教書籍購入が難しい国を回り、現地の経済に沿った価格で書籍販売をしています。カンボジアにも毎年来訪していますが、なぜか、クリスチャンでない隣の大家さんも船を見学に行ったことがあるほど、有名な船だそうです。私たちも今回教会の兄弟姉妹たちに誘われて、初めて行ってきました。天気が悪く波が高かったため、船体がかなり揺れ、気分が悪くなってほんの30分ほどで下船してしまいましたが、書店はカンボジアではまず見られないほど、大層な大きさでした。
2009/07/11
神の声
lightningphotos.comから拝借した稲妻の写真です。まだ雷鳴が続いています。雷と稲妻と言えば、雷鳴は神の声であると、聖書は教えます(2サムエル22:24、詩篇18:13、77:18、104:7、ヨブ40:9)。新約聖書では、天から語られたみ子に対するみ父の声を、聞いた人々は雷鳴だと思ったと記しています(ヨハネ12:29)。
「主の声は、水の上にあり、栄光の神は、雷鳴を響かせる。主は、大水の上にいます。
主の声は、力強く、主の声は、威厳がある。
主の声は、杉の木を引き裂く。まことに、主はレバノンの杉の木を打ち砕く。
…主の声は、火の炎を、ひらめかせる。
主の声は、荒野をゆすぶり、主は、カデシュの荒野を、ゆすぶられる。
主の声は、雌鹿に産みの苦しみをさせ、大森林を裸にする。その宮で、すべてのものが、「栄光。」と言う。」(詩篇29:3-9)
雷鳴がとどろくたびに、この詩篇を思い出します。
「主の声は、水の上にあり、栄光の神は、雷鳴を響かせる。主は、大水の上にいます。
主の声は、力強く、主の声は、威厳がある。
主の声は、杉の木を引き裂く。まことに、主はレバノンの杉の木を打ち砕く。
…主の声は、火の炎を、ひらめかせる。
主の声は、荒野をゆすぶり、主は、カデシュの荒野を、ゆすぶられる。
主の声は、雌鹿に産みの苦しみをさせ、大森林を裸にする。その宮で、すべてのものが、「栄光。」と言う。」(詩篇29:3-9)
雷鳴がとどろくたびに、この詩篇を思い出します。
天の父が降らせて下さる雨
雨季に入ったというのに、このカンポット州ではこの3週間雨がほとんど降らず、乾季の最も暑い季節のような猛暑でした。近所の田んぼもせっかく田植えを済ませたばかりと言うのに、水が蒸発してほとんど乾いてしまっており、農業を営んで生活している教会の人たちのことを思うと、「主よ…」と祈らずにはおられないこの頃だったのですが、ようやく今日、雷、稲妻と共に、激しい雨が降り始めました。娘は雨漏りのする台所で、躍り上がって、「雨だ!主をほめよ、主をほめよ~」と、叫んでいました。雨は天の父が降らせて下さるもの、まことに、主をほめよ、です。
「天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。」(マタイ5:45)
「天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。」(マタイ5:45)
2009/07/09
カレン族
少数部族に対する政府軍の攻撃が続いているミャンマーですが、今日の宣教ネットワークニュース(Mission Network News)で、約60%がクリスチャンであると言われているカレン族に対し、政府軍の矛先が上がったようで、カレン族の居住する地域が軍によって包囲され、ロケット弾が撃ち込まれ、マシンガンを持った兵士が生き残っている村人を片っ端から殺害しているそうです。女性は強姦され、男性は生きたまま火をつけられ…昨年起こった、インドのオリッサでのクリスチャンに対する迫害を思わせるような状況です。タイ国境の難民キャンプに逃げた人々に対しても、ロケット弾を撃ち込んだりしているそうで、政府軍の少数部族に対する攻撃は、私たちが一般メディアで聞く以上に、深刻なようです。私たちにとっても、ミャンマー人の友人が数人いますので、他人事ではありません。
厳しい状況の中で、ミャンマーのクリスチャンたちの信仰が更に強められ、福音を人々に語る勇気が与えられるよう、またキリストのみ名がこの迫害の中にあっても崇められますよう、覚えてお祈り下さい。
厳しい状況の中で、ミャンマーのクリスチャンたちの信仰が更に強められ、福音を人々に語る勇気が与えられるよう、またキリストのみ名がこの迫害の中にあっても崇められますよう、覚えてお祈り下さい。
2009/07/07
2009/07/06
カンニング
カンボジアの公立中学校で一斉に期末試験が行われました。カンボジアではカンニング、あるいは試験監督に賄賂を渡して試験をパスさせてもらう、というのがごく一般的で、生徒を試験に合格させるため、一年に数回あるこの全国試験で親も子と共にあらゆる手段を尽くします。最近外国の影響を受け、それがいけないのではないか、という世論もあり、政府は軍を導入してカンニングと賄賂の受け渡しを阻止しようと努力し始めたのですが…大した効果はないようです。地元新聞でも、最高で$80(約8,000円)に至るような賄賂の受け渡しがあったと、掲載されていました。このカンニングと賄賂、カンボジアでは大変根深い問題で、子ども社会、大人社会を問わず、当然のように行われています。日本でも無いわけではないのですが、カンボジアでは隠さずに、堂々とやってのけるのが日本と違うところだと言えます。
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